身体と心の気づき(令和6年)
令和6年12月18日
占わず振り返らず留まらず今の一点に合うこと
占うことは段取りの不安であり整っていない状態。
把握にアソビが多い状態でもあり、把握の外と把握の中の境目が段取りの不安である。
整った状態を外さぬこと。
上体が下体を追従させ気配を抑えやすくする働きもあるが、下体が上体の気配を紛らわせ反射反応を抑える働きもある。どちらも上下の使い方が肝心である。
令和6年12月4日
剣を振るというのは心身の邪魔になるものではなく味方となるものである。
そうした素振りがこの日の稽古で実感出来た。
令和6年11月27日
斬る(振る)ことの先には祓いがある
稽古そのものはお参りである
技術云々よりも、願いが大事であり、気づきではなく与えられたものである
令和6年11月20日
関心事を何処に置くか
剣を振り下ろす事より状態が変わらぬ事
令和6年11月13日
峰を反しての納刀は、右腕を三日月にしてからおこなうこと。
足の使い方は、土踏まずで立っているような感覚でおこなうこと。
ひさしぶりに「表裏転廻」の動作をおこなったが、これまでの足使いとは違う操作を身体がやっていた。開くことより閉じることを優先すると流れになる。
令和6年11月6日
抜刀術「立一閃」に進展があった。これまでは肩が詰まっていたが、鞘の角度を改めたところ斬り手が働くようになり刃鳴りがこれまでに比べ安定的に聞こえるようになった。横に斬るも縦に斬るも「斬り手の大事」があった。
令和6年10月30日
抜刀術「天神」の最中、逆さにした鞘を無意識の内に元に戻している。
このことを分かって抜いても、やはり鞘を戻す瞬間の記憶は抜けている。
他に意識を集中することが出来れば、自動的に身体が行ってくれることが可能であるということ。ただその集中が難しく、手順が多ければその中の一つを忘れることが出来る。しかし、手順の少ない一振りの中で同じように行おうとすれば、物理的には無い手順(内観)というものを作りだし、そこに意識を向かわせなければ忘れたままに動くことは無理だろう。何を意識するのか…そこが難しい。
令和6年10月27日
陰と陽(表裏)
なるほど、呼吸である。
力を使う際に息の殆どは吐き出され、身体は息を吐いて練られた状態が表である。
しかし、物事には相反するものが不可欠でそこから均衡を保っていることから、息を吸う身体の調整(裏)というものが大事なってくる。ヨガとは正に呼吸を大事にし、息を吸うために息を吐き、その整え方を養うものである。呼吸はいつでも何処でもその意識により働かせることが出来るが、誤ったのめり込み方には気をつけなければならず、実感に通ずるものとして身体の調整の中で補っていくものとしたい。それ以上の奇跡を求めてはならない。
令和6年10月26日
目付のこと
眼は水平に遠くに置くことで崩れにくく動じにくい。それは身体のことであるが、心理的にも同様である。つまり、焦点の当てすぎは不安や欲に誘われやすくなり、その焦点を手前に置けば置くほど、目先のことに絶えず右往左往と翻弄され続けてしまうのである。勝手に過ぎ去ってしまうもの放って置けば良いものは眼に入りやすく近いところにあるものだ。
令和6年10月23日
自分の家に人を招いた感覚
場に飲まれたい空間の整え方。
この世に表裏があるように、どちらかが掛けてしまうとその物事や現象は存在しないことになる。よって喜びや幸福の裏には、そこで得られた物事現象に対する落とし前をつけているのである。それは現世でつけるのか、来世、もしくは前世~それ以前につけてきたものもあるだろう。だから不満において筋違いをしないよう納得していかなければならない。
激しさを求めるならば、それに応じた振り幅の穏やかさを知らなければならない。
強さも然り、弱さ脆さを知ること。
与えられたもの、気づかされたことに対する礼とは何か?
自らがその恩恵を示し、より良い世の中になっていくことを願い行動していくことにある。
礼の気持ちを持ち続け実践することがその人の道ならば
令和6年10月9日
この日の稽古で抜刀術「立一閃」の右足と腰の具合に気づきがあった。速さと力に大きく関わる。
「座一閃」では初動時、腰が吊られるように柄に手を掛けること。つまり二段階で浮きを掛けなければならない。
令和6年10月2日
準備していない動きは手に足が付いていくように。
抜刀術「立一閃」は右足が発力に関わってくる。鞘から離れた直後は惰性的な力の抜き方となることで奔る。
令和6年9月25日
この日の稽古で、杖術の打ち込みは下手の働きが全体の一致に関わっていると実感。
その動作は良くないものとして認識していたつもりが、無意識的に働いていることを知り、僅かに働かせると素振りに関しては一致感が高まり、実際に打ち込みにおいては威力が増す。
抜刀術稽古でフト感じた「時間がある内は力を抜くこと」
令和6年9月18日
この日の抜刀術稽古では「天神抜き」に進展があった。上体から下体へと流れる体側の繋がりによりこれまでの違和感が消えた。円は小さすぎると流れがはみ出てしまう。
逆手からの納刀においても、微細な位置の修正により左手に鋒が触れにくく安定的におこなえるようになった。
剣術では、互いに正眼から剣を深く合わせて相手の剣を左側へ楽に押し込むことが出来た。この身体使いが体術にも応用出来た。
令和6年9月16日
笑顔とは強さであり賢さである
このことが腑に落ちた瞬間身体の深部が緩んだ。
混在しないためには(同じ土俵でぶつからない)主観と客観に棲み分けたところから始まらなければならない。技法の前の前提として捉えておかねばならないが、否、既に技法の内なのだろう。
令和6年9月11日
杖を使って手の内、肩、腰などをゆっくりと追従させる稽古に効果を感じた。
脱力しながら自然に動ける経験を身体に覚えさせること。
さらに、目を閉じ呼吸に集中することで、両手を重ねておこなう「重ね誘対法」の効果も得られることが解った。これは身体の調整法の一種であるが、深部が緩むことで整体効果を感じる。
令和6年9月4日
抜刀術「立一閃」の脚足の使い方が変わり、これまでの左足始動から右足始動となった。
これにより左足は水平に振り抜く剣の慣性に引かれて回り込み、これまでよりも円に体を使うことが可能となった。
体術では、受ける側の身体使いに「反射追従系」と「頑丈系」に分け、それぞれに得手不得手があることを確認した。今後はそれらをどのように一つの流れで使えるかを探っていきたい。
令和6年8月28日
本日の稽古では、体術における脱力と力の受け方を集中的に取り組むことが出来た。
一本に繋がった部分がある。それは「力の受け方」であり、その追従と波が身体の反射反応として備わるかが今後の鍵を握る。そして追従と波、即ちそれらは「流れ」ということであり、剣術で取り組んでいる型稽古の間そのものでもある。素振り然り、抜刀然り、すべてに通じている流れである。
令和6年8月21日
抜刀術「立一閃」の初動は、足が浮いていなければならないことが再確認できた。右肘と左足のどちらの具合を優先すべきか考えていたが、左足の方を優先すべきである。
杖術の払いを稽古したが、その中で払う方向を変えたことで、より相手にとって立て直しにくい払いとなることが解った。この場合浮き身も効果的に使うことが出来る。
令和6年8月14日
8/10におこなった抜刀術特別講習会での気づきから、この日の稽古で抜刀術「津波返し」における着地の際、左右の足の位置が改められることとなった。それにより前後左右の上体・下体が整った。
令和6年8月7日
今日の稽古で抜刀術に今後のテーマが見えてきた。
身体各部分との折り合いを付けることが、次に進むための足枷となっていることに気づく。
そこに気配や相手が感じる雰囲気に表れている。折り合いを付けずに抜く事は極めて難しいことではあるが、居着いた状態から居着かない状態とするこの「折り合い」というのは、実は居着くことになっている、真逆のことをやっていたようにも感じる。勿論当初はそれが手掛かりの実感となっていたのであるが、螺旋軌道のように前に進んだことで元に戻るような手順となるが、それは似て非なるものであり、新しい感覚とは螺旋軌道を進ませ巡らせていくものである。構えを省いた抜刀術の次は、折り合いを付けずに抜くことがこれからの課題となった。
剣術の正面斬りでは、肩の力を抜く事で力が通っていくが、素振りでは何とも良き実感が得られにくい。そこで両足を開くように浮きが掛かると今までの素振りには戻れない実感を得ることが出来た。引き上げの浮きは合わないが、開いて沈む浮きはピタリと合致する。
令和6年7月31日
抜刀術「立一閃」にさらなる進展があった。以前構えておこなっていた鷲眼一閃の感覚に近い初動となる。肩の可動と頭の位置に気づくところがあった。それに関する手の内の使い方も改めるところがあった。
素振りのための素振りと実際に強く打ち込むまたは斬り込む剣の振りとは異なるため、素振りというのは力を抜けるところでおこなう必要がある。
令和6年7月24日
抜刀術「立一閃」で剣は横軸の軌道となるが、身体の使い方としては縦軸の使い方に通じていることが解った。つまり胸椎と肘関節の兼ね合いである。
令和6年7月17日
この日は剣術の型を模索する。
稽古時間の大半を要したが、この日おこなった内容がキッカケとなり7/20・7/21の講習前の時間に確認することが出来た。「捌きの質を高める」ことに気が向いたことで、今までに試みる気配も無かった剣術型稽古の今後の展開にも通じていくように感じる。
令和6年7月13日
今日の講習で剣術「流し斬り」に進展
剣先を下げようとせずに、右手手の内を緩めることで鋏のように相手の剣が滑っていく。
それが出来ていると、何故そうなっているのか端から見ても極めて解りづらい。
令和6年7月3日
気づいた内容より気づきまでの過程に価値がある
人はなぜ同じような誘われ方に陥るのか?
逆境や苦しみを味わい、気づきまでの自らに課した行動や実践などが、人間にとって与えられた役割なのか?価値に気づくために悩み苦労し、価値を得る(生きていける)ために実践し身体と向き合う。そこで何事かを得られたとしても、価値があるのはその気づきではなく、そのための取り組み方(生き方)なのだろう。
令和6年6月29日
姿勢と思整の違い
思整による心構えが身体を強くする
令和6年6月26日
身体の状態を整える方法に気づく。
5/15に気づいた整え方は動きの後であったが、今日の気づきでは動く前に整えることが出来ることが分かった。その整え方は様々であり、いわゆる「内観」というものは、このような不思議な感覚なのだろうと実感した。あらためて人間の身体とは興味深いものである。
令和6年6月5日
抜刀術「座一閃」に進展があった。
以前取り組んでいた「趺踞からの抜刀」と同等の一致を得られることが出来た。
それは動きの手順にあるが、やはり浮きは必要である。
令和6年5月29日
納刀における鞘の操作に気づくところあり。
なぜそのように行っているのかが明確になった。
右手、乃至は姿勢に関して重要な働きとなっていた。
令和6年5月22日
この日の稽古で抜刀術「立一閃」において刃鳴りに抜く事が可能となった。
令和6年5月15日
抜刀術「飛燕」の足の使い方が変わった。昔のように左足が出て行くように改めたが、その出方が変わり、初動の問題と最後の一致が取り敢えずは解決した。
納刀時に気づきがあり、そこから身体が纏まることを知り、それを外さぬ呼吸を覚えた。これは今日この日一番の大きな気づきであった。
令和6年5月10日
「急がない為に急ぐ」
「苦しいときは感謝する」
「元気の源はワクワクすること」
令和6年5月8日
本日の体術稽古では、手首関節に対する流れを稽古した。これは事前情報を入れず自分の感覚に委ね流れを作っていくものとする。数年前まではわからなかったことが、今は身体が誘導してくれている感があり助けられている。情報を入れないことも身体の思想に委ねるには大事である。
前回の稽古で「逆転の浮き」を応用した身体使いを、再び立ち技に応用した。なるほど、相手を浮かすにはそこが肝心なのだということがわかった。相手を浮かせるには自らが浮かなければならないが、そのためにどのように浮くかが肝心である。
重心が掛かりすぎると腰が重たくなってしまう。腰が軽くかつ必要な重心位置の境目を見極めること。
令和6年4月24日
この日の稽古で体術による膝抜きを幾つか検証した。
上手く力を通せるものもあれば、まだまだ使いこなせないものもある。
座って行う「逆転の浮き」を用いた技では、何故だか解らないが相手が浮かされてしまう。
それを立った状態からおこなっても同様に浮かされて崩されることがわかった。だが、その原理というか理由は今のところ見当たらない。
令和6年4月20日
本日の講習で、先日とある場所で突如生まれた杖術の技をお伝えし、あらためて膝を抜くことで技が技となることを実感。帰りの道中、この膝抜きが体術に使えないか思案し、帰宅後家内を相手に幾つか試みる。すると想像していたよりも使えそうな実感があり、次回の稽古でさらに確認したいと思う。
令和6年4月17日
本日は体術にて相手の関節を利用した押さえ方を稽古。
杖術の手の内や足捌き、そして体術における体捌きが自然と動きを導いていく。
これまでに身に付いた感覚に任せ色々な発見が続くことになるだろう。
令和6年4月10日
手の内は手が勝手にそのように動き重心は足が勝手にそのように動く
学ぶ(習う)ということは、「癖付ける」ということである。
その癖付けによって、得られたものと弊害になっているものを考えなければならない。
その習い事とはジャンルに限定されず全てにおいて癖付けされる。
体術「引き込み潰し」における身体の動きに気づきがあった。
身体に訊いてみる(確認してみる)ことをこれまでにもよくおこなっていたが、身体に訊いてもよく分からないことがあるものだと、さいきん感じるようになってきた。つまりそれらは、なぜ出来ているのか自分にも解らない現象なのである。それが今日の引き込み潰しでは、ある部分において、何となく不思議には思っていたが、あらためてそこに重要な働きがあると確信した。なぜそのような動きをしていたのかは全く不明であるが、思いに従い身体がそれを精確にやってくれているのである。ただしかし、奇妙な動きである。
令和6年4月5日
物事の処理、対応というのは得物を持つ手の内のように扱うこと。
つまり、単一的な方法というのはプラスにもマイナスにもなり、効果的では無いと言うこと。
手の内というのは、剛柔の加減を調整することや、良き方向と悪しき方向の調整もおこなうことが出来る。
そこには、現場実践という経験からなる技術が、頭からではなく、身体から対応すべく気づきを得ているのである。手の内とは外部との接続部であり、実に学ぶべき実践がそこにはある。
令和6年4月3日
今日の稽古で、先週の抜刀術の立構における気づきが体術の座り技にも驚くべき利きがあった。円の回転方向ということであるが、不利な状況からでも相手を浮かせて崩せる程とは思っても見なかった。
令和6年3月27日
力を抜ける強さ
顎で腰が利く
抜刀術における立構に進展があった。抜くまでの初動に何故時間が掛かっていたのかが解った。それを改めたことで、身体が動き出そうとして居着きが消えた。円が逆だったということ。重要な気づきであった。
令和6年3月12日
抜刀術「後方突き」における動作の理解が一つ深まった。
前足が後ろ足の鼠径部に力を掛けつつ、それを逃がすように重心移動を行っているということ。さらには、そのための時間を短くするため、前足の爪先の角度をやや内寄りに変更しても問題ないと判断した。それにより、腰の転回におけるロスが減り、より速やかに動けるようになった。
令和6年3月7日
身体感覚の共鳴と相互理解が私のおこなっている活動の本質であり、今の時代を生き抜く手段を結果的に提示しているものである。
見すぎて見えないものと喋りすぎて伝わらないもの。これには自省を促される。
令和6年3月6日
剣術「落とし突き」「引き込み潰し」「鶴嘴崩し」がそれぞれ型となった。
そのため、技に入る前段階に手が加わり、その間も含めて技となった。
令和6年2月26日
心の豊かさとは日々の強さの証である
言い訳をしない、人の悪口を言わない、自省に努め実践する。
自然の風景がもたらせてくれるものの中に、心を豊かにするものがある。
自然を美しく感じられること、そこに人間にとっての救いがあり、心を守ってくれる感じ方があるように思う。
では逆に、そうした自然の風景を消してしまってはどうだろうか?
人の心は暴走しあらゆる欲の達成に向かって突っ走っていくのだろう。
不自然なものに関心を持ち投資し、世の中多くの人の欲で自然に反する方へ舵を切り猛進している。その暁に豊かさは存在しないと私は思う。生き方へのしっぺ返しは有耶無耶にはならない。
令和6年2月14日
この日から居合刀(二尺七寸)を新しくした。
組杖稽古中にフト、「止まってはいけない」と強く感じた。止まってはいるが、止めてはならないのである。その流れをどのようにして掴むのか課題として加わった。
令和6年2月7日
抜刀術「座一閃」の低さを出すために、歩幅と背中の角度を改める。しかし、慣れない動きで身体へのダメージが大きい。
令和6年1月23日
「誘いに掛かる」とは、思いの偏りであり、無意識に予測立て、そこに移行させている習慣の表れでもある。
令和6年1月18日
「助太刀の原理」を考えるに、やはり「流れ」からの気づきである。
昨年気づいた、「上体と下体の繋がりによる左右のナンバ的身の引かれ方」をより精確に出来るものとなる。川の流れに例えるなら、高低差の流れによる力よりも、上流から流れ集まる力ともいうべきか。その辺りが少しだけ解ったつもりであるが、源流からの流れは未だ解らず。そこはおそらく心法の世界だと思われるが、最近口にしている「思いの大事」も、ある種「心法の世界」のキッカケにはなっているのかもしれない。
令和6年1月17日
今日の稽古で「助太刀の原理」を発見した。
両手は左右で潰し合うこともあるが、片手においても潰し合うことがある。
その潰し合うというのは、弱い部分が徒になっているということ。弱い部分は攻めて行かず、強い部分に任せること。第一線でおとなしくしておくこと。
令和6年1月16日
ものを見るという行為は、同時に自分を見ない行為であると断定出来るのではなかろうか。
ものを見続ける日々の習慣は、それだけ自分を見ない習慣となっている。
令和6年1月12日
武術とは、身体感覚を駆使した戦闘の体系から人が生きていくための学びへと昇華させるもの
思想とは、気付きの基である
即ちそれは、生きていく中での実践に通じていなければならない
教育は、目にするもの耳にするもの全てである
よって人は、どういった空間を生きるかが大事なのである
令和6年1月10日
新たなる体術への道を模索しなければならない。それは、状況を打破することよりも、状況を作ることから始める。時間が掛かってもその道を選ぶことだ。
抜刀術の流れが、いつの間にか身体に馴染みだしてきた。稽古をしていなくともこのように取捨選択がされていることに驚く。
技が出来る身体と稽古が継続できる身体。
身体と心の気づき(令和5年)
令和5年12月27日
抜刀術の「立構」における状態に進展があった。
後ろ重心は、尾骨では無く爪先の送りで作り出す。
「飛燕」は、腰が低くなり、切っ先はこれまでよりも奔らせ、垂直に近い状態まで位置する。
際(きわ)の大事。
令和5年12月20日
この日の稽古は、先週に続き抜刀術に進展があった。
「天神抜き」を改め、中心を外しながら抜く事とした。そして二之太刀は右からの袈裟斬りとした。
封印していた「飛燕」を再びおこなうこととした。
「趺踞からの抜刀が大幅に変わった。そのため新たに「座一閃」(すわりいっせん)と名付けた。
令和5年12月19日
勉強とは、自分に合った生き方を探すためのもの。そのために学ぶものは全て生きる勉強である。
幸せなときというのは鈍感なものである
鈍感こそ自然であり優れた能力がある
身体的発想が無くなれば、人間はこれまでの人間で無くなる
鈍感には躊躇や雑味がない
令和5年12月13日
抜刀術の手順に幾つか変更があり、それがこの日一番の進展となった。
抜刀術や納刀法において、力みが抜けることの一つに「支点感覚を得た」ことがある。力は支点を乱す。
柄を離した直後の鯉口の取り方に気付きがあった。
「ひと手間が流れを生む」後方突きを右足から左に送ることを身体が受け付けたのは、腰が軽く使えるようになったことで、足数を増やすことが出来るようになった。それによる自然な流れが技の利きとなった。
流れが良くなると最早それは手間ではない。
体を開くことは、動作によっては単なる抵抗である。また、体を開いた際に下を向いた方が肩が楽であることも下を向きやすい要因の一つになっている。
◇「ひと手間の大事」
◇「流れを感じる」
◇「精確な支点感覚を得る」
変更のあった抜刀術
◇後方突き
◇隅返し
◇隼抜き
◇滝壺
令和5年12月06日
この日の稽古、抜刀術「隅返し」において、左足の歩幅や角度、そしてなるべく踏まぬよう努めることが肝心であると再確認できた。
「津波返し」では、鞘出しの際に、身体が引かれる流れが掴めた。これはやはり、剣や杖による素振りの感覚が高まったことが大きい。それにより立構から鞘出しにおける加減が自然と備わった。
令和5年12月05日
隙の無い状態とは、自分の事を疎かにしないこと
目に入るものばかりを見ていて、自分の事を忘れている
そしてその注意すらも忘れてしまう
変わるためには相応の取引を自らに課さなければならない
逃げるか認めるか
諦めるか取り組むか
令和5年11月29日
違和感(釣り合い)とどう向き合うか
全身の焦点(フォーカス)を合わせないように動く
ピンボケにすること
令和5年11月23日
違和感とは、釣り合いの均衡が変わってしまったことにより生ずる
令和5年11月08日
今日の稽古で、上下体の連なりによるナンバ的身の引かれ方に胸と背中が関わっていることが分かった。そしてそれが自然とやっていた斬りの体捌きに大きく関係していた。
さらにこの日は、上段からの斬り下ろしにおいて左と右の兼ね合いが大きく変わり、そこに気づいていなかったことの大きさを知る。甲野先生の言われることが少し分かったような気がした。
慣れの能力
見るための姿勢 考えるための姿勢 動くための姿勢 それらを混同しないこと
令和5年11月07日
この日のクラーチ剣術教室で女性に膝痛が多いのは何故か指導していて分かった。
令和5年11月01日
この日の稽古で、剣術「満月」の際の左手手の内の使い方にアドバイスをいただき、速さと精度に進展あり。
体術「座り一点接触からの崩し」において、手の動きが円の連なりを起こすことが解った。
令和5年10月25日
峰反し納刀(峰返し納刀改め)に進展あり。
踵の大事。
剣術「満月」の足使いが変わった。
体術では大きな進展があった。ナンバ的要素の上下体の繋がりが剣や杖だけでなく体術の技で幾つか格段に利きが良くなった。これには久しぶりに驚いた。
令和5年10月24日
目で見るための姿勢を疑うべきである
令和5年10月18日
体術の座り技に気づきがあった。
反りを生かす様に腰を動かす。それが袈裟斬りにも応用出来ることが解った。
上が出過ぎると下が使えない。下を生かすための上の使い方。体術を丁寧に行うことで気づかされることは多い。
令和5年10月11日
当たり前に出来ることに感謝。当たり前でいられる状態をこれまで以上に丁寧にしなければならない。そうして当たり前に出来ることを上げていく。
令和5年10月04日
正面斬りにおける刃筋の正確性に気づきあり。各部に振り分けることでこれまでよりも具体化した。
納刀稽古では、左右の導きにより流れが生まれることが分かった。
左右は導き合う流れと使うこと。
令和5年09月28日
学ぶためには感じるしかない
令和5年09月20日
「集中と感応」
人間の能力、自然治癒能力や消化排泄、睡眠起床、よくよく考えてみれば大変有り難いこと。
そうする努力をしなくとも勝手にやってくれていること、それに近い感覚で身体を扱うこと。思いとは別なところでそれをやってくれる働きとは…
そこに、互いが感応し合い高められた集中が一つの導きになるのではないか。
令和5年09月07日
今日の稽古で、剣術・杖術どちらも慣性の前に引かれるものがあることが解った。それは手足が連動したときのナンバのタイミングにある。そのことが解ったのは大きかった。
抜刀術「隅返し」では、鞘出しが鞘引きに利いていることが解った。これにより、失われていたエネルギーが戻った。というより意識的に解ったことでより向上した。
令和5年09月05日
先日採用した、歩を付けた際の杖の打ち込み手順が変わったことにより、剣術における歩を付けた際の袈裟斬りでも変更することになった。素振りは素振り用の感覚を養う目的があるように、間合いにより素振りというものは変わって当然である。その振り方の弊害を解決するのが脚足の働きにある。
令和5年09月02日
この日の講習前に、歩を付けた杖の打ち込み手順を変更したところ、これまでの違和感よりもこちらの方が気配の意味でも武術的であることから、今後は新しい手順での打ち込みとなった。
令和5年08月29日
本日のクラーチ剣術教室でのお話から思うに、
「実践無くして実感無し」という言葉に注視した。
武術稽古の求めるところは、身体感覚の探究でもある。
その身体感覚をどのように得ていくのか、実感を得ていくための稽古を実践すべきなのである。そのためには、自得の猶予を持たせて動かなければならない。
忘れられるために得て、忘れてから実感を知る。その記憶が予測となり、流れを生み出す。
令和5年08月16日
良いこともあれば悪いこともあるのはこの世の鉄則。
どちらも無ければ、良いも悪いも存在しない。
止まない雨はないように、乗り越えられない道はない。
自宅で安静にしている間に自分自身気づかされることがある。元気なときに観る自分と、弱っているときに観る(看る)自分というのは、味覚と同様、派手な味を美味しい物だと勘違いしていることに気づきにくい。弱ったときに必要な物が本来の真実であり、それ以外は装飾なのである。もちろん装飾も必要であるが、装飾しかない物はやがて遠ざけられてしまう。自分自身にとって必要な物、そしてそれが出来ることをやり遂げていくこと。それが自分にとって必要な壁なのだろう。
令和5年08月12日
昔から私の場合八月は運気が向上するのであるが、今年はこれまでに上手くいかないことが多く足踏みさせられている。まずは、PCに苦戦していること、それが二週間ほど足を引っ張られ、そうしている間にこの日の午後、発熱と翌日は喉の痛みが強くなった。昨年罹患したコロナと全く同じ症状。ただ、今回の方が喉の痛みが若干和らいでいた。
令和5年08月01日
今日のクラーチ剣術教室で、最後に二刀を使った動きをお伝えしたところ、これが体にとって良い動きであることが感じられた。思わぬ発見であったが、シニア層の方にとってはお勧めの動きである。姿勢は心身に何らかの影響を及ぼすが、この二刀の倣いは、宮本武蔵や他流等でよく見かける形ではあるが、これが体に良いと感じられたことに自分自身驚いた。これは今後講習などで、身体と心のメンテナンスの一端として「二刀之倣い」として取り入れることになるだろう。
令和5年07月18日
武術とは、自分と否応なしに向き合わせられる体系である
令和5年07月12日
この日の稽古で、体術「斬り落とし」に進展があった。両腕では強力な箇所も、片腕になると脆くなる。さらには、強力な力は、それを利用して位置を変えると崩せなかったものが崩せるようになった。
剣術では、先週気づいた「裏交差からの斬り付け」における技の工夫に進展があった。それは先日土曜日の講習で気づいたのであるが、仕太刀の工夫でなく、打太刀の工夫によりこれを技と呼べるものにすることが出来た。今日の稽古では、脚足の運びは重要であるが、手の内の操作になるほどなぁ・・・と思えることを手がやっていたので、この技名を「満月」と名付けることにした。おそらく今後残っていく剣術の技となるだろう。
令和5年07月05日
この日の抜刀術稽古では、肚が練られるような感覚を覚えた。身体各部の感覚的統御は肚にあるのかもしれない。
剣術では「裏交差からの斬り付け」に対する打太刀の変化に間に合わせられるか試みたところ、これの体捌きが稽古になるものであり、今後新たな剣術の稽古内容として取り組むことにした。
令和5年07月01日
体術「斬り落とし」に進展があった。腕を小さく極力始動させないように斬り手とともにおこなうことで、受けた相手の前腕内部に小さなコブが出来た。
令和5年06月23日
身体を動かすこと、得物を振ること、それらには全て流れがあるが、相手と接触した中で、その流れをコントロールすることが出来るのだろうか?もし、それが可能になるとすれば、明確な身体使いが見えて(感じられて)くる。流れがあるならば、流れを無視した考え方は誤りである。
令和5年06月09日
解っていたつもりでも、切実なる実感を得ないと、それは見過ごしていたことになる
令和5年05月31日
「自業自得」という、漢字の当て方に今更ながら唸ってしまう
令和5年05月30日
今日の講習で、杖を下段に構えてからの突きは、下手が中心にあることで、肘から先の動きがより小さくおこなえることが(今更ながら)解った。
令和5年05月24日
この日の稽古で、杖術「三十連円打」全体の重心移動を変更した。これにより、重心と得物の動きに合わせて引かれる身体使いの習得と、その際の腰の浮遊感を掴む稽古になるものと思われる。
抜刀術では、立構の際に、両手の接触感覚は体術と同じように肩の気配を極力消すように努めることで感覚が良くなった。しかし、そのことを体術で試みると、単に接点からの気配というのは接触だけによるものではなく、身体の中で起きている出来事の結果が接触部から伝わっていることに改めて気づかされる。
頭と尾骨の意識で身体を整える姿勢には、腰が軽くなる働きもある事が分った。その感覚で動き続けられるかが今後の課題。
さらにこの日は、剣の振り方にも変化があった。これまでの手の内の締めによる切っ先の立ち上がりと両肘の落とし込みをほぼ同時におこなう操法では、手の内の締めが両腕に緊張を生み、それが振り下ろす際の動きに抵抗を感じさせるものであることが分った。そのため、手の内の閉め方の具合というのはこれまでと変わらないと思うが、自らそれをおこなうというより、結果的に締めざるを得ないように使うことが、両腕の緊張を遅らせ剣の奔りを向上させるものであることが、居合刀や木刀から実感を得られた。しかし、木刀に関しては重量の軽さから左手手の内の働きの間が何とも掴みづらい。この左手手の内の間が無いままに振り下ろしてしまうと、何とも言えぬ下手な実感しかなく、それは身体が拒むものであり、そこに左手手の内と右手手の内の間というものが刹那に働いていると思うが、そこが全体の調和に関わっており、調和以外にも何かに働いているような気がする。今後はこの振り下ろし方を良き実感とするものに出来るよう努めていきたい。
令和5年05月17日
関心事や焦点は気配となる。
令和5年05月16日
稽古では、その瞬間に訪れる焦点が何処にあるのか。そこが肝心なところである。
誘いとは、焦点を眩ますものでもある。
人と人とのやり取りの是非は、互いの焦点が何処にあるかではなかろうか。
先ずは、誘いに奪われず自らに焦点を合わせ続けること。
令和5年05月10日
腰の浮遊感で動く
それにより、脚足の使い方が微妙に変わってくる。
斬太刀は左手の使い方を学ぶものであり、右は疎かになりがちである。
左の使いどころと右の使いどころがあり、それをどう把握していくかが今後の課題。
令和5年05月09日
武術稽古を重ねていくということは、日常とリアルにリンクしていく方向に通じていると思われる。心身における思想がリンクしていくということなのかもしれないし、把握が無意識のレベルを高めていくということなのかもしれない。いずれにせよ、稽古とは己の心身の把握に努めることにある。
令和5年05月02日
身体と心理が動きを導いていく。そこに無意識的な習慣や癖、それによる身体の状態が動作を選択するのである。
まずは、其の部分を組み替えていかなければならず、杖術稽古の優れている点は、各関節の連なり手順を身体が学びとっていくことにある。
やがてそうした身体の習慣の組み替えに心理的な状況も含め、意識を別の方へ向かわせた時に、気づきというのは訪れ易くなる。
令和5年04月25日
剣を振るということは腰の沈め方を学ぶということ
太刀の軌跡が背中の軌跡
令和5年04月21日
この日は、抜刀術における鞘の持ち方に気づきがあった。納刀に関しては、型が窮屈になってしまう形は見直す必要がある。刀の形よりも姿勢の方が重要。
摺り足には、左右の重心配分のブレを押さえる働きがある。
令和5年04月19日
浮身というのは、足使いの手順とその際の重心位置が大きく関わっている。それらを分離せず、良きところで混ぜなければならない。この混ぜる、「乍らに使う」ことが肝心。
令和5年04月14日
見上げる目線は、力みに繋がる。
見上げるつもりが無くても、頭が下がった姿勢では目線に気を付ける必要がある。
令和5年04月05日
目の焦点と内なる集中には関連性があり、そのことはこの日の抜刀術稽古で確認出来た。瞑想感覚に近いのではと思える心の沈殿を実感することが出来た。今までに無かったことは、今までに気づかなかった事への扉を開いたことにもなるだろう。これからの気づきに期待したい。
そのほかには、胴斬りや抜刀術「隅返し」では、力の流れを右手から左手に移すことで、剣が奔る実感を得た。
令和5年04月04日
眼の使い方に誘われないための技術と集中がある。眼を使うことは、見えるための妨げになっている。
見ないこと、聞かないこと、口に出さないことは、所謂「見ざる」「言わざる」「聞かざる」で有名な言葉であるが、人が人として向上し生きていくための核心部である。それは、見えないのではなく、聞こえないのでもなく、口に出せないということではない。誘われている自分に気がつけるかということが重要。
令和5年03月25日
「誘いは把握を阻害する」
武術稽古の目指すところの一つには、誘いを断ち切り自他を把握出来るか。そこへ思いを馳せる稽古が道標でもあるが、その道標もまた、道標と感じられるかなのだろう。
令和5年03月15日
今日の稽古で、抜刀術「懐月」後の納刀で、鯉口が鍔元へ近づいて行くことが切っ先を導く流れに適っていることが解った。解ってしまえば何てことはないのだが、これが中々解らないものである。
体術で、背中からの発力を相手に試してみたが、正面への対応と横への対応とでは、腕の使い方が事なり、それは手首や肘、肩甲骨といった連なりにも大きく関係してくる。これが抜刀術にも大きく関係しているのだ。
令和5年03月13日
姿勢に関してというより、頭の動きに関して、人は下を向いてしまうことが多いのは何故なのだろうか…?
姿勢を乱す原因として上を向く人や左右に傾く人は殆ど見かけないが、下を向く人は多い。頭の重さも関係しているだろうが、日常生活を占める首の角度と言うものが、姿勢として記憶されてしまっているのかも知れない。スマホを覗き込む時間は下を向いている場合が多いのではないだろうか。ストレートネックの原因とされているが、それだけでなく、悪い姿勢の連鎖を促し、その角度をニュートラルな位置として認識してしまうことで、下を向くほうが自然に感じられるのかも知れない。
だからこそ、姿勢にとって重要な頭の角度というものを稽古して身に付けておく必要がある。
令和5年03月01日
この日の稽古で、峰返し納刀の鞘の動きに気づきがあった。長年やっていたことを具体的に理解するまでにどうしてこれほど年月が掛かるのだろうか。
抜刀術稽古では、全体的な感覚でおこなうことが出来た。良く分からないままに動けること、そしてそれを統御していること。まだまだこれからその感覚を追求していかなければならない。
私自身というよりは、お伝えする内容として腰を落としての素振り稽古に得るものがあった。身体の使い方、腰の落とし方を学ぶには剣を振りながらおこなうと実感が得られやすい。
杖術では、手の内の柔らかさをテーマにおこなった。その中で、寸止めや手の内の中で回転させる持ち替え操作は、手の内を柔らかく繊細な感覚を養うものとしてお勧めである。
令和5年02月24日
この日の稽古で、体術「斬り落とし」でも斬り手の有効性が確認出来た。斬りの体捌きとは、斬り手無しにはあり得ないことが分かった。
令和5年02月22日
この日の稽古で、逆手納刀の際に人差し指を外していることに気が付いた。柄を持つ親指は伸びており、人差し指は外れ、他三指で柄を握っている。いつからやっていたのかは不明であるが、操作性において大きな違いである。
杖術では、肘から腕の付け根までを動かすようにおこなうこと。肘から手の方を主体に動かしては身体が育たない。
体術「切り込み入身」では、斬り手に大きな効果があった。これは先日甲野善紀先生との稽古で教えて頂いたものあるが、斬りの体捌きというのは、斬りの手の内でなければ意味が無い。
令和5年02月17日
この日松聲館に伺い甲野善紀先生との稽古で、剣術における手の形と体術における手の形に通じるものがあることを知る。斬るも突くもその手でなければならないということ。
また、左右の手というのは、上体から下体への流れ(斬り)に繋がるものがあり、両手を強く締めるということは、肩が流れを堰き止め浮き身が止まってしまうような気がした。斬りとは、手の内もそうであるが、身体の中での流れでもあり、そこには左右別々の働きをもって斬りと成しているのではないかと感じた。
令和5年02月14日
「目も姿勢のうち」とは以前から言っていたことであるが、「姿勢の第一歩は目線から」のほうが、よりその関連性を意識させられる。おおむかし、火を見たことが無い人が初めて火を見たときは、いったいどのように思ったことだろうか。無いものが現れ、食べられなかったものが食べられるようになり、寒さを凌ぐことができる。それはまさに魔法のような奇跡だったことだろう。言葉(言語)も同様に、一つ一つの音の組み合わせが、身体を通じて理解という魔法になっていく。
令和5年02月08日
抜刀術では、身体を木に例えると、樹の部分の力を抜いておくこと。その抜き加減というのは、これまでの稽古の実感によるものであるが、樹の力を抜き、枝葉の動きに連なって動けると、抜けた速さの一致となる。しかし、樹の動きを考えずに、枝葉の動きに自然と連なって動けるためには、その逆の稽古が必要。何を書いているのか分からないと思うが、要は、質の高い実感を重ねることで、そのことを忘れてもそのように動けることが、武術稽古としての道程に外れていないものであるということ。例えるなら、身体を痛め、あれほど気になっていた痛みがいつしか治っていた。という感じに近い。
令和5年02月03日
松聲館にて、斬割の際に先生の使い方と同じように右手を主体に働かせると、両手を働かせた時のように払われず、先生の竹刀を噛むような粘りがあった。
令和5年02月02日
流儀における身体の思想とは把握による導きなのである
令和5年02月01日
抜刀術の一人稽古で、「津波返し」の前足の使い方を変更した。これまでは、前方への移動と下への沈み込みの兼ね合いに身体の折り合いが付かず、足首を返して、膝抜きのように沈んでいた。しかし、これでは時間が掛かってしまうため、上に上がる感覚で腿を持上げ沈むとこれまでよりも具合が良かった。その他、鞘出し鞘引きの手間を丁寧に行なうことで速さと一致が得られる。急がば回れと分かっていても中々そのようには動けないものである。
令和5年01月27日
先日25日の稽古で生まれた杖術の新しい技名は「流転払い突き」と命名した。
さらに、剣術「鍔迫り合いからの展開」で発見した幾つかの技を一連の流れとして「三理之型」と定めた。
令和5年01月25日
今日の稽古で、杖術「払い突き」における、手前側の手の内が自動的に滑りを使っていたことが分かった。意識せず手の内が動きやすい方法を選んでいることは以前から感じてはいたが、あらためて、手の内が技を技として導いているような気がする。それほど大したことの無い動きでも、手の内が働かなければそれは出来ない。得物との接点である手の内を育てるには、稽古における経験以外に無い。
更にこの日は、杖術「合心之型その二」から派生した技が誕生した。玉簾系の技であるが、攻防における互いの動きも稽古になるので、今後の稽古に加えることにした。
令和5年01月18日
この日の稽古で、剣術「鍔迫り合いからの展開」表交差側からにおいて、新たな動きが展開した。それは、鍔迫り合いから相手の太刀を沈めることの意味を見い出すことが出来たのであった。続いて、裏交差側からの引込潰し返しに対応する返し突きの動きでも少し進展があった。そのほか、昨日変更した杖術「三十連円打」の十八番「上手二扇」から十九番「下手一扇」に繋がる動きの足捌きにも前進・後退それぞれに理解が進んだ。
令和5年01月17日
クラーチ剣術教室の講習で、杖術「三十連円打」は腰を落とし、これまでの半身よりやや正面向きに前足を開くことでより姿勢が安定することが分った。
剣術では、「逆手廻し納刀」における、反転してからの親指の使い方が、単に肩の詰まりを防ぐだけで無く、手の内を滑らせ、それが肘や肩の位置を整え、姿勢の乱れを防いでいることに気が付いた。おそらく、こうしたことは、他にも自然にやっていると思われる。全ての細やかな動きには、関連した意味がある。
令和5年01月13日
この日の個人指導で、姿勢からなる心理面とのつながりについて考えさせられた。
心理面が姿勢に表れる。または姿勢が心理面に表れる。前者は経験がそのようにし、後者は経験に無いものを形から作っていく。型稽古というものは、もしかすると後者に近いものがあり、それは心理面のみならず、身体の状態を感じとることで技や術理への気づきにいざなわれているのかもしれない。
令和5年01月04日
この日の稽古で剣術に気づきがあった
鍔迫り合いからの展開において、表交差側、裏交差側、それぞれにこれまで課題としていた対応に進展があった
稽古始めで思いも掛けない展開に感謝したい
身体と心の気づき(令和4年)
令和4年12月29日
時間の早さに巻き込まれないこと
大事なものを使い捨てにしないように、ジックリと自分の時間を守って行くこと
そのことが見えているかが来年は問われている気がする
令和4年12月23日
松聲館で甲野先生と稽古
左右がそれぞれ介入しないように使うこと
気配、威力、速さに関わってくる
特に気配については驚くべきものがあった。反射反応とは、相手に対し左右を感じて繋がっているのかもしれない
令和4年12月21日
思うことの奥深さ
本日の稽古では、重心について考察したが、肩の動きは重心に大きく影響し、さらに肩を動かすのに胸椎の動きが関連している。そうしたことから、上体と下体、それぞれ別個に重心を作っており、場合によっては、ブレーキとアクセルを同時に踏んでいるような重心位置となっていることもある。
剣を大振りに振り下ろすことで、剣から学ぶ身体の連なりを得ることが出来る。これは今後、講習会などでもお伝えしようと思う。
身体の連なりを学ぶ「大振りのススメ」
重心は、下体と上体で別々に作っている
胸を張ると後ろへ、胸を緩めると前に動く
令和4年12月18日
福岡での講習会で、新しい剣術の技「引き込み潰し」をお伝えしていたときに、右足の歩の伸びは、袈裟切斬り稽古で身に付いたものであり、それが自動的に働いていることが感じられた。基礎稽古というか、自分にとってのバロメーターとなる動作を追求していくことが、技の進展や気づきに大きく関わっている。
令和4年12月11日
この日の講習前に、これまで小太刀でおこなっていた「引き込み潰し」という技を大刀でも出来ることが確認出来た。そのためには、斬り結ぶと誘いを掛けて裏交差へ斬り込んで行く甲野先生の影抜きのような動きが求められるが、そのまま相手の首元へ斬付けられればそれで良いし、受けためられた場合には「引き込み潰し」が決まってしまう。どちらにせよ、有効な技である。
令和4年12月07日
この日の稽古で、抜刀術「懐月」の間合いがこれまでよりも近接でおこなう条件とした。それにより、初動に連なる左足の使い方が自分でもどうやっているのか分からない動きとなる。
令和4年12月04日
この日の抜刀術稽古(講習内容を変更した時間帯)でさまざまに得たものがあった。
「懐月」では、鞘引きにおける左肩の開きが、刀を身体から離してしまう要因となっていたことが解り、同時に右手小指の押さえが抜けやすくなっていることも解った。
「立一閃」では、横一文字に斬るのではなく、発して止まるまでをなだらかな円軌道とし、その際の右手首の角度に小さな気づきがあった。
「津波返し」「隼抜き」では、今回初めて試みたが、いずれも鞘出しの際に角度を変えることで、左右の肘、肩が整う。同時に刀の閃きを早く行なうことに繋がっているが、その角度は水平にこだわる必要が無いこと。そこに納得がいった。
「天神抜き」では、腰、肩が回る感覚、それに自然と足が連れて行かれ、落下となる。そのコンマ数秒間の手順感覚に実感を得た。
「滝壺」では、W氏に訊かれて気づいたが、着地の音が二回鳴っていた。それは、体を開く際の左足に重心が乗っており、その着地で軸足となる直前に両足を引き上げている。無意識なるものはスムーズに、そして安定的に出来るものである。
令和4年11月30日
今日の稽古で、体術「斬り落とし」の」威力がこれまでの中で最も利きが良い事を確認した。
腕と体との位置関係、それと手順が整っていれば、今までに無い力の使い方が出来る。
令和4年11月24日
心身の一致。それは滅多に得られるものでは無いが、そこに「普遍的な真理が実感出来る」のだと思う。
令和4年11月23日
体術「斬り落とし」で、新たな身体の使い方を試みる。
予想通り、利きは良かったが、三回ほどしか出来なかったので、次回の稽古でより研究して行きたい。
令和4年11月16日
この日の稽古で体術「引き落とし」に大きな進展があった。
長年出来なくて苦手としていた人でも、アッサリと出来るようになってしまった。
本当に技の出来不出来とは些細なものである。
令和4年11月14日
杖の片足打ちが身体を整える稽古としても有効であることが分かった。
力みとは、相手の反射対応を促すものでもある。脱力の有効性とは、そうした相手の反射反応を無くすことでもある。
令和4年11月10日
少数により保たれるもの、多数により失われるもの、そこに例外は無く、どの範囲までを少数と見極めるかが重要である。
令和4年11月07日
この日の稽古で、杖術「繋之型」は、可能な所は両足の間に頭が在り続けるように動くこと、そして「轟之型」では、膝抜きとの一致が、左右の重心配分も含め、そこが稽古の本題になっていることが分かった。
令和4年11月03日
身体を通じて学ぶことは、人がこれまで感じてきた「人間らしさ」を学ぶことになっていた。
しかし、便利な世の中でデータや計算によるこれからの世の中は、人間らしさからかけ離れ、新たな世代により、これからの人間らしさが構築されていくのであろう。そのことはやむを得ないが、若い頃とくに関心も無かった、「人はどう生きるべきか」ということが、高尚で他人事のようには到底思えなくなった。多数派の進行は止められないだろう。考えて実践している人はこのことを憂うだろうし、こうした中でも正直な幸せを掴むことが、今の世を生きる術である。そのための勉強が、考えなくてはならないテーマの本題であり、多感な世代の子供達は、何に時間と思考を費やして学んでいくかが、大人になり社会に出たときに決まってくるのではないだろうか。
令和4年10月26日
この日の稽古で、体術「独楽落とし」の腕の使い方を信じられるようになった。先日の左足の見直しと、蠢動による質量の増加のような強さ、そして瞬間的に生じているであろう「弱所散助の働き」が技に影響していると思われる。この日は、約一年振りに技の利きが良くなった。
剣術「斬り太刀」では、一昨日の講習で気付いた中心の取り方からヒントを得て、自らの中心をどのように使うか、そこに気づきがあり、相手の発する剣をこれまでに無く僅かな動きの変化で強く払い相手の中心に突きつけることが可能となった。そこには浮き身も関わっており、やっていて、何でこんな簡単なことに気付かなかったのかと思うが、意外に難しいものなのかもしれない。
令和4年10月23日
この日の講習前確認稽古で、体術「独楽落とし」に進展があった。これまで信頼していた左足の開きを止めたところ、蠢動の利きが良くなったのか、力の伝導ロスが明らかに減った。今後も研究を深めて行くが、よかれと思っていた身体の使い方がじつは足を引っ張っていたということに、今でも何故その利きの逆転現象が起きたのか解らない。
令和4年10月22日
この日の講習で、剣術の基本太刀でもある「斬り太刀」に進展があった。それは、中心の取り方であるが、中心とは合わせて取るのでは無く、ズラして取るという、至極当然のことなのではあるが、意外や意外に気付かないものだったなぁと、改めて昔の稽古による刷り込みということを思い知らされた。
令和4年10月19日
この日の体術稽古で、先日北九州空港ゲート前の待ち時間で気付いた、胸椎と肩甲骨の操作による斬り落としが有効であることが分った。これは剣を振る体捌きが関係していることもこの日分かった。ここ最近、斬り落としで検証した術理を昨年の9月頃から古い順に挙げておく。
◇身体を波に使う
◇頭と尾骨の意識による身体の整え方
◇左右の繋がりを使う
◇ペンギン立ちで上体に芯を入れる
◇胸椎と肩甲骨の連なりを使う
令和4年10月17日
北九州空港での待ち時間中に、胸椎と肩甲骨の操作による片手上げを逆の操作でおこなうと、斬り落しが強くなることが確認出来た。これら一連の動きには、動きの連なりが大きく関係しており、今後の身体操作の発見にも大きく関わってくるかもしれない。
令和4年10月12日
この日の稽古で、体術「案山子落とし」に進展があった。初動時の重心操作のタイミングが技の出来不出来に大きく関わってくる。同様に「独楽落とし」という技にも、重心操作のタイミングが関係しているかもしれない。
椅子に座った状態で体術稽古をおこなったところ、脚部の使い方に気づきがあり、「ペンギン立ち」という立ち方が、切り込み入身や斬り落しという技に有効であることがわかった。
さらにこの日は、椅子に座って剣術、杖術、体術などをおこなったが、想像していた以上に椅子に座っても稽古が出来ることが分った。
令和4年10月07日
この日、稽古場で空きの時間に椅子に座っての剣術稽古を試みる。背もたれがあるので動きに制限があるが、足が不自由な方でも剣が扱えるということ。諦めずに稽古が出来ることが自分でやってみて実感出来た。
令和4年10月05日
今日の稽古で、杖術「三十連円打」の十八番「上手二扇」と十九番「下手一扇」の動きに進展があった。動きの繋がりとして、上手、下手に杖を掴む際に、体に近いところへ誘導しながらおこなうと、流れが良くなり、そこに滞りがあったことに気付かされた。
体術では、左右の繋がりにおける円の使い方で、その円を、接点となる相手との方向にぶつけること無く、受け取るような形に使うと、座りで行なう体術「一点接触による崩し」や、立って行なう「切り込み入身」などの受けとして、強力に止められることが解った。またその際の肩甲骨の具合というのも、最近気付いたものではあるが、大きな効果を発揮した。
令和4年10月03日
長年感じてきたことだが、なぜ、間違える動きというのは良くない方へと間違えるのだろうか。
右も左も上も下も、なぜか正解の逆を選択しているように思う。おそらく、偶然では無い何かしらの作用が働いているものと思われるが、言葉で伝えず、見習うことの重要さとはそうしたことにも関連しているのかもしれない。
三十連円打の時に、得物は体に近いところで働かせる事により冴えがあるのだと、あらためて感じた。
令和4年09月28日
今日の戸越体育館の稽古では進展が相次いだ。
抜刀術稽古では、「立一閃」の納刀において、縦納刀における左右別々の体捌きに大きな進展があった。これは長年やっている峰返し納刀のように「やめられない系」に属する内容となり、それだけに難しいが、動きに居着きがないため心地よい。この心地よさが、何度も何度も繰り返し稽古したくなる要因であり、違和感から心地よさへの転換とは、さまざまな動きの善し悪しがザックリとした実感により統御されていくものである。
続いて、「懐月」の納刀では、鯉口が切っ先を導いて行く実感があった。その際に、左右の腕というのは表向きは離ればなれになっているが実は裏で繋がっていることが確かめられたのである。抜刀術稽古には、剣術や杖術と異なり、左右の持ち物がそれぞれ別物であり、その別々のものが発する時も納める時も、離ればなれにあるものがその瞬間繋がる使い方にならなければ働かせられないのである。そこに離れていても繋がっている感覚があり、それを深めて行くことが抜刀術稽古では可能であると感じた。
体術では、納刀で得た「左右の繋がりの発見」が、切り落としという技や、座り一点接触からの崩しなどで大いに有効であった。あらためて、抜刀術稽古における左右の繋がりを知ることは、今までに無い感覚を新たに得ていくものであり、アソビあるところを如何に繋げてあげられるか、その左右の働きは、相手の先に侵入させることも出来るし、それが出来ない場合は円に使うことも出来る。いずれも相手と接触していない部位を裏で通じている状態からどのように働かせてあげられるかがカギとなる。そして今まで掴めていなかった左右の繋がりを調べていくことで、やがてそれは「内観の発見」に通じてくるのではないかと思う。そのために今は、離ればなれにあるものを如何に繋げてあげられるかが目下の課題と言えよう。
最後に、抜刀術稽古は、身体各部の把握と動きの統御、そこに意識を集中させるのであるが、その把握が進み、身体の状態を全身の統御に集中させるというか、居着かないように考えないようにすることは、いわば一種の瞑想状態に近いものである。その瞑想状態というのは、身体からのインフォメーションを受け取り易くするものであり、気づきを得るための状態作りでもある。もちろんそれは、抜刀術に限らず、剣術、杖術にも当て嵌まるが、その体系を身に宿すのは一人稽古であり、抜刀術にはその趣が強い。
令和4年09月24日
この日は品川区総合体育館での講習が始まる前に少しW氏と体術の研究稽古。
そこで、肩甲骨の使い方により相手と腕を合わせた「切り込み入身」という松聲館の体術にある技に気づきがあった。またその際の首の使い方も構造的な強さとして有効であることが分かった。
令和4年09月21日
体術にて、正座からの片手上げに進展あり。
上体と肩甲骨の働きに気が付き、両手で押さえられている左手をそのまま背中で引き上げ肩甲骨の働きにより相手が背中を着けて倒れるまで崩せるようになった。また、その肩甲骨の使い方で、羽交い締めにされた状態からも簡単に抜け出せることが分かった。
抜刀における鞘出しと柄取りは水が流れるようにおこなうこと。
抜刀術「立一閃」に進展があった。鯉口からハナレの軌跡が重要であること。そこに奔りと精度が関係してくる。抜刀は左右を共につかうこと。
帯刀して一発目から抜刀が精度良く出来るか。この精神集中の感覚は、これまで時間を掛けて準備してきたが、この日何もせず試みたところ、三本目辺りからいつもの状態に入れた。今後はこうした意識の稽古を深めたい。
令和4年09月14日
変わることを恐れない、自分で考えたことに突き進む。
良いものだけを見て貪欲にそして謙虚に実践する。
令和4年09月07日
この日の稽古で、杖術「水車」における左右の持ち替えは、手の張りを使っておこなうと具合が良いことが分かった。
令和4年09月05日
この日の稽古で、抜刀術「懐月」と「立一閃」における脚部の始動に迷いが無くなった。
その他、立一閃では腹の前辺りの空間、ここの意識が全体の統御に関わっている感がある。
令和4年08月31日
抜刀術「立一閃」に進展があった。これまでにない鞘の使い方と、脚部を意図的に操作しないことで動きの連なりに鈍さが消えた。
令和4年08月26日
この日の深夜、ひさしぶりに甲野先生と電話でお話しすることができたが、あらためて思うことは身体というルールを駆使して武術は深められていくものであるが、その身体というルール、すなわち骨格の関連性や可動域、皮膚接触や反射反応、人間そのものに備わっているものを駆使して技と成しているのである。それが前提にあり、余計なルールや縛り事がないからこそ、物事の、いや人間というものの本質に迫ることが出来るのである。
だからこそ、現代を生きる我々日本人は、もっとシッカリと考えて生きていかなければならないと…これまでの過ちを改めなければならないのではないかと…思うのである。
令和4年08月20日
今日の講習で剣術「鶴嘴崩し」に進展があった。右手を逆手に持ち替える際の脚部との連動や左手で相手の柄を握らず起こすことで、滞りが消えることが分かった。
令和4年08月16日
先日の福岡講習会に参加された疋田一直氏に宛てたメールの一部を引用します。
稽古の空間というのは、しみじみと残っていくものですね。それは皆さんの思いと一体になって生まれた時間なのでしょうね。技術も知識も大事ですが、なによりこの感慨深さというか、一人であって独りで無いような、あのとき、そして今を生きていくのでしょうね。
(ここからは今書いたものですが)
よくよく考えてみますと、身体というものに焦点を合わせ、各地から人が集まり、それぞれの思いが込められる空間というのは得難いものです。その繋がりや経験というのは、その後の日常や稽古において共にあり続けていくものです。それがきっと、私自身への救いでもあり、私が活動している基になっているものです。そうした体験体感をこれからも多くの方々と共に過ごしていくことが、私の講習会や稽古会ということなのでしょう。
令和4年08月10日
この日の稽古後に門人であり神戸で世話人を務めて下さった川原田喬生氏に宛てたメールの一部を引用します。
人の縁が繋がり、今の環境がある。やるべきことがある。人は会うことで傷つき、会うことで救われる。
結局のところ人は人と直接会わなければならない生き物なのでしょう。
一度でも会えば、その人の言葉は良くも悪くも判断が変わるものですので、その言葉や文字にないところ、つまりSNSで伝わりづらいところに、本当の判断が出来るのかもしれません。
講習会や稽古会というのは、そうした人の言葉や文字にない部分を感じ取り、伝わり合うことが望ましいのかもしれません。古武術を稽古するということは、古の日本人の身体性の微かな匂いだけでも感じとり、その身体性から思想に気づき、日本人としてのアイデンティティに向かって心身を整えていくのではないかと思うのです。それはもちろん古武術だけでなく、職人仕事も同様です。日本人が世界列強の中で生き延びていくための根幹は、そうした身体の精妙な働き現象に対しやがて思想に通じて行くことかと思います。身体の思想が流儀にあるように、そこで練られ育まれたものが考えとしての思想になり、人が人で居られる人間社会を見直していかないと、人任せでは、生きるに値しない世の中に突き進むばかりとなるでしょう。
弱者でも生きることに精一杯の力を使えるような、そんな日本人としての在り方を、今の我々世代の中年層は、追い込まれて育っていない世代でもありますので、本当の危機感はなんなのかに気づいていないのかもしれません。」
(ここからは今書いたものですが)
映画、音楽、娯楽、そうしたものの背景にはちゃんと伝わってくるものがあった時代がありました。その時代におけるバックボーンがどのような分野においても根底に通じていたのではないかと思うのです。昨今の各分野における停滞、下降、危機感にはそれが欠落してしまっている気がいたします。それが時代の定めであるのなら、今を生きる我々は自分を持って生き抜いていく術を養っていかなくてはならないでしょう。
令和4年08月03日
この日の稽古で、口の形、歯の噛み合わせ、呼吸の具合による身体の変化を観察した。
それにより、力みの手掛かりとならない口の形、歯の噛み合わせ、呼吸について検証することが出来た。特に呼吸についての観察が進んだことは大きかった。
体術「引き込み潰し」は、右前腕手の平側で相手の肘を擦るように引き込むとより柔らかく崩れる。
令和4年07月29日
身体の思想は、会わずして深めてゆける対話がある
令和4年07月27日
この日の一人稽古で、居合刀による一風変わった振り方を稽古した。
これは数年前まで全く出来なかったが、身体が変わってきたのかやりたいことの可能性が見えてきた。詳細については出来るまで伏せておくが、今までに経験したことのない箇所が激しい筋肉痛となった。長年のマメが皮膚の中にめり込むような動きなので、身体を壊さないように
何かを身に付けたいと思う。
令和4年07月21日
生の時間(ライブ)をどう作ることが出来るか。伝える側と伝えられる側とのセッション(何かが生まれる予定不調和なもの)こそが教育というものなのかもしれない。
令和4年07月19日
眼を使わない使い方の大事
目は見るためだけの働きでは無いことに納得した。
令和4年07月13日
頭と尾骨の意識で身体を整える稽古で気づいたのは、目線のズレや表情により利きが悪くなってしまうのは、そうした各部の動きそのものではなく、その結果生じる意識の変化やとらわれによることが分かった。ということは、一つの方向性が見えてきたことになる。
令和4年07月11日
体術「引き込み潰し」をひさしぶりにやってみたが、この技は、第一の崩しとして、引き込みの間が肝である。その早すぎず遅すぎず最適な間でおこなうと、相手の状態としては先回りが困難になるため、手首と肘に掛ける第二の崩しが容易となる。その第二の崩しは踵を上げ、背中を乗せるように、両手を丸く働かせること。そうすれば相手は踏ん張れずに接触部が痛むことなく倒れてしまう。
令和4年07月09日
今の世は、嘘に対して見極め、強くならなくてはならない。そのためには距離を上手く取っていかなければならない。つまりは、嘘というものに対し、距離感が依存によって縮められてしまうから苦しむことになる。依存は隙の中に忍び寄ってくるもの。便利なものは依存性が高く、便利なものに誘いが仕込まれている。嘘を本当にさせてしまっている世の中は、信じるに値するものなのかどうか、そんなものに依存しないで生きられれば救われるひとも多いだろう。
原理とは身体観察のお題である
令和4年07月04日
抜刀時における背中からの発力は、腕の脱力、居着きの軽減にもつながる。
今後は、どの技に使えるかを選定したい。
令和4年06月29日
抜刀術「立一閃」にまた一つ進展があった。そのことで、鞘引きに対するこれまでの思い込みが改められることとなった。姿勢と鞘の操作の関係は重要である。
抜刀術は、他の稽古で得た感覚を取り入れるのではなく、抜刀術の中で得られる感覚を動きの中から抽出していかなければならない。尤もそれは剣術や杖術にも言えることであるが。
令和4年06月22日
抜刀術「立一閃」は背中から動くことで全ての手順が整ってきた。
体術では、頭の傾きも、目線も、表情も、利きに大きく左右することが確認出来た。
令和4年06月20日
剣術、対正眼からの突きに対し、払いから瞬時に相手の左小手へ斬り付ける動きが生まれた。
令和4年06月15日
今日の稽古で「尾骨との兼ね合い」が姿勢を整えることに気づいた。これは全般的に関わってくるものであり誘いに乱されにくい。
抜刀術では足の使い方を忘れていたことに気づく。しかし、それが剣術に通ずるかと言えばそうではない。身体使いの相性というか状況に応じたパズルのような整い方を知っていくことが大切だと再認識した。
型稽古は「誘いに対しどう対応するか」が問われている。
令和4年06月11日~12日
この日初めて故郷である福岡で講習会をおこなった。
とはいうものの、北九州門司から福岡市早良区の百道(ももち)は90km離れており方言も異なる。しかし、そこに向かう道中や世話人の方、そして講習会に参加された方々とのひと時は、どこか懐かしさを覚え、高校を卒業するまでの約18年間をこの地で過ごしたのだとしみじみ感じた。何事においても最初の頃というのは、いつまでも心に残っているものだと…その最初に全てのドラマの始まりが決まっているのかもしれない。人生経ってみなければ分らないものだ。
令和4年06月02日
足裏の接地圧が姿勢を整える
それ故に下駄というのは常に意識づけられる効果がある。
令和4年05月30日
杖術「水車」を速くおこなう際の連動はこれまでと異なることに気がついた。
杖術「巴」においても片手打ちの際に足が落ち着かないことが重要であると気づいた。
抜刀術「趺踞からの抜刀」では背中と腰の関連に気づきが得られた。
令和4年05月27日
駅の階段も神社の境内と思えば立派な階段と思えてくる。毎日参拝の足づもり。
令和4年05月25日
身体を整えるには手の内が重要であり、手の内を養う杖術稽古は、身体を整える稽古にも通じていることが再確認出来た。
杖術「掴まれた際の対応」では、新たに有効な杖の働かせ方に気がついた。
剣術「鶴嘴崩し」では、相手の剣を抑えた姿勢が低い場合、そのまま下へ崩すことも可能であることが分かった。
令和4年05月20日
抜刀術は身体に委ねるような感覚。何処かに固執せず、かつ考えなければならない。
「隅返し」「隼抜き」の初動の手順に気づきがあった。
令和4年05月14日
現代における武術稽古の意義とは、人としての存在価値を高めるものとして、心技(身技)がその体系の中で育まれ、普遍的に展開することに意味がある。
令和4年05月11日
今日の稽古で、刃筋について技術的な部分を得られた。これによりあらゆる角度に対して刃鳴りが聞こえるようになった。右と左の違いも含め興味深いものである。
体術では、座り稽古で肩の使い方の効果が「取り」と「受け」によって真逆になってしまうことも興味深いところであった。力を通す側とそれを受ける側、身体の不思議さに稽古意欲がさらに掻き立てられ同時に身体も練られる喜びがある。稽古とは、今の今を目標に、興味を掻き立てられる現象を探究していくものなのだろう。心地よさも含め、それは身体からの言葉でもあり、飛躍進展への筋道だと思う。
杖術では、掴まれた状態からの対応法を研究。これは、一つの動きを完成させるよりは、自由に臨機応変な動きに対し、その流れの中で如何に導き出されるかが稽古になり、これは簡単には身に付かないだけに稽古のし甲斐がある。得られたものは決まりきった動きでは無く、自然とそこに気づけるものなので、応用範囲が広く、武術としての動きの間や、人の身体の特徴を把握していくものなので、この稽古は今後機会が増えてくるだろう。しかし、やり方を間違えてしまうと大変なことにもなりかねないので、そこは、陥りやすい状況を作らないように伝えて行かなければならない。
令和4年05月09日
連続した速さには、繋ぎをどのように処理するか、どこに繋ぎがあるかを見つけること。
それがいずれ繋がりを省略し新たな手間を加えることで質的向上が図られる。
令和4年05月08日
結局のところ何処まで本気であるか。
そこを見て決めていかなければ逆効果になってしまう。
笑いや楽しさの裏には本気で出来ないもどかしさも隠れている。
令和4年05月05日
人はその環境その状況に合わせた自分を演じている。
それは追い込まれた中で出てくる一面であり、自分でそこへ追い込んでいくことが、これからの自分の存在に対する指針となっていく。そうした普段をつくりあげていくことが己を守っていることにもつながっている。
令和4年04月29日
何事も実体験してみなければ分からないものがある。
推測でモノを語っては大きな見落としをしてしまう。
目立たないことや普段というものに大きな価値がある。
令和4年04月17日
腕と背中との連結部である肩を力ませてはならないのは以前から当然の如く分かっていたものであるが、あらためてその重要さに気づく。きっと肩そのものを練ることも重要なのだろう。
令和4年04月13日
場のちから 場の誘い 場の余韻
集中と自重には共通しているところがある
令和4年04月11日
抜刀術「津波返し」では、左足の使い方に進展があった。
そして同じく「隅返し」では、鞘引きの流れが身体を整えることに気づいた。
令和4年04月08日
抜刀術「立一閃」での鞘引き後の鞘出しがこの抜刀では重要な意味を持つことがあらためて解った。体捌きに欠かせない引き出しとなる。
令和4年04月01日
抜刀術「立一閃」が進展した。これまでの大きな浮き身から、小さく摺り足に近い重心との手順により動作が速やかになった。
令和4年03月29日
武術稽古は生き方に気づかされるものである。それ即ち自分の身体を真剣にかつとても興味深く観察することにより、人間というものを学んでいるのだろう。そこに真摯に向き合い続けることができるか…己を俯瞰に俯瞰に観ることはなかなかに難しいものである。
令和4年03月20日
流儀とは 身体の思想である
令和4年03月16日
「質の高い経験」このために稽古をやっているといっても過言ではない。
そこを目指し自得していくための試行錯誤が稽古であり、稽古の雰囲気を稽古している覚え方を何処かで身につけてしまっては、本来求めなければならないものに対し感じられなくなってしまうため、分からない(納得できない)状態から抜け出せないのである。
これは元々下手なのではなく、稽古の仕方が悪かったので、自ら質を得ていくことが抜け落ちてしまっているのである。まずは、一つの実感を自得出来るところから求め方を知り、その求めに応じて、ある瞬間に感じられるようになれば、動きの善し悪しが解り、やがて質の高い経験とともに信じられるもの(身体)に気がつくであろう。
令和4年03月09日
今日の稽古で、居合刀による素振りは微妙な手の内や手首の働きに気がつくものがあり、これまであまりやらなかった居合刀による素振りを見直すことにした。これは私の身体が変わってきたことも感じ方に影響したと思う。得物に導かれる感覚を大事にしなければならない。
令和4年03月02日
今回は抜刀術に幾つかの進展があった
「津波返し」では左足の使い方に進展があった。浮きながら沈ませること。
「抜付」と「鷲眼一閃」の合いの子が生まれた。名称を「立一閃」(りゅういっせん)とする。
「懐月」では、右半身への抵抗を減らす左肩が重要であることが解った。
令和4年02月23日
集中の仕方
集中という言葉のイメージで行なうのではなく、抽象的な何かが、その人にとって全てを管理するものに繋がっており、誘いから離れたものであること。
集中状態は、思い込みではなく、心身がそのように切り替わった状態でもあり、維持されるものでもある。だから、集中状態の入り方が何よりも重要である。
令和4年02月21日
興味を持つこと興味を持ち続けられること
そこを優先できる選択が本質に迫っていくのだろう。
何事も欲をかかないことである。
令和4年02月14日
自然が人間に与える恩恵には、人間らしさを保ち、人間が自然と共に共存していく慈しみの心と幸福に気づかせてくれることにある。これらの気づきは受け売りではなく確信する気づきからである。
令和4年02月07日
この日月曜日の稽古で、地を滑るように移動するための寄せ足は、後ろ足に浮きが掛かっていることが、説明している中で解った。ただ寄せたのでは両足は伸びないが、浮きが掛かりながら寄せると伸びる。人に伝えることで言語化が進展した。
令和4年02月02日
この日水曜日の稽古で、歩幅と重心の兼ね合いが大事であることが解った。そしてこれは見た目には(歩幅の)違いが分かりにくいが、実感が明らかに異なり、体の引かれ方に大きな違いがある。引かれるまで待てるか。これまでにもそうであるが、急がば回れは多くの事に当て嵌まる。
峰を返しての納刀では、右足が重要な働きになっており、右足で納めるような感覚でおこなうと滞りが消滅する。
抜刀術の稽古は、武術的時間感覚を身体に覚えさせるものがある。一致や重心感覚、それらが身体のつくりを整える何かしらの働きと共におこなわれている。それはもしかするとゾーンやフローと言うものかもしれないが、それは経験の中で作られていき高められていくものだと思う。つまり、それを(一人稽古における)稽古の基盤とするのだろう。
令和4年01月31日
杖の突きは得物に引かれるようにおこなうことで、身体の整い方が変わるような気がしている。
言葉はよくないが「盗むように学ぶこと」が学び方としては優秀である。懇切丁寧に教えたい人から学ぶのではなく、学ばれてはまずいと思われている人から何とか盗むようにして学ぶことの方が、学び方としてはその人間の能力を育てている。しかし、教える立場にある人がこのように学ぶものを育てることは難しいものである。盗むようにして学んだものを、さらに発展させ、より良いものをお返しするようなことになれば、互いの盗み合いとなりそれは「発展的なる盗み」と、益々おかしな言葉になってしまうが、互いの気づき合いが一気に稽古の質を引き上げて行くことになる。そういう関係性で稽古を重ねられることが理想のひとつでもある。
令和4年01月26日
今日の稽古で三つの気づきがあった。
一つ目は、身体を揺らす動きに色々な方向からの波が混ざり合うような動き。
これにより肩甲骨や股関節も同時に温めるような馴染ませるような解れる実感があった。
二つ目は、胴斬りが速くなったこと。左足を浮かせ、地に着く前に振っていたものを、左足を浮かせた瞬間にその足もろとも剣の慣性に引っ張られるように手順を変えたことでこれまでよりも全体の動きが速くなった。これは、数年前にも試みたことがあったが、腕の位置が当時は異なっていたため採用には至らなかった。
三つめは、杖の巴において「始終一致の調和速度」に、見た目の一致でなく、「慣性と重心の一致」であるべきだと気がついた。これは剣術などの素振りで既にやっていたことであるが、杖の単体技において見逃していたことに今更ながら気がついた。
令和4年01月25日
歳を重ねて行くことの意味は自然を理解していくということかもしれない
令和4年01月19日
脱力の力を今一度体感することが出来た。相手に対する反射的情報を失わせる働きがあると思われるが、今後の展開に向け益々力が抜けるところを探っていきたい。
令和4年01月15日
杖術で自由に動き続ける稽古には、「技の間」を自然と掴める働きがある
自由に動き続けるという、不自由な制限の中で始めと終わりの繋がりを重ねること
令和4年01月12日
稽古では、考えなくて済むものと考えなければならないもの(気づき)を集中の配分によりおこなっていくこと。それが進展であり、心身の循環である。
令和4年01月05日
今年の稽古始めは水曜日の戸越体育館からであった。
一人稽古では、納刀は体に近いところでおこなうと操作感覚が随分変わることが分った。
抜刀術では、重心を先に動かせてあげること。急がば回れの一手間は疎かにしてはならない。
身体と心のきづき(令和3年)
令和3年12月25日
剣術特別講習会において、二つの対称となる型がこの日初めて形となった。
素振りの基盤として、左右正面斬り、左右袈裟斬り、それらの精度と重心移動が型にそのまま反映される。今後はこの型を、基礎稽古と共に練り上げていくことになるだろう。
令和3年12月20日
時代の変化、価値観の変化、世代交代など含めて、今までと同じままに受け止めてはならない。そのことに依存してしまうのが問題である。
令和3年12月13日
この日の稽古では、抜刀術「稲妻斬り」において、鞘引き後、柄を縦に沈ませることで、体の沈みを誘発することが分かり、手順を変更することが出来た。これにより、右手が上に上がりにくくなることと、体の沈みのタイミングが、全体の動きの中で一致するようになり、速さと精度が高まる結果を得られた。
さらに、直後の剣術において、袈裟斬りの際の足運びと剣の慣性の兼ね合いが合致するようになり納得いくものがあった。それは抜刀術同様に、前足はただ落ちるということ。余計な操作は全体の兼ね合いを損ねてしまう。ただありのまま手を加えずに落ちていくこと。それと同調し剣を振ること。そうすれば剣の慣性を良きところで貰い、一致した重心移動と剣に重さを乗せることが出来る。
令和3年12月11日
この日の講習で、正面斬りを速くおこなう場合は、左手が頭上へと先回りして行くような感覚でおこなうと、体が抜け、速やかに動ける事が分った。
令和3年12月08日
蠢動による体術の技「独楽落とし」「案山子落とし」は、気配と向き合う稽古になる
令和3年12月07日
脱力と言う言葉は抽象的であり、慣性を貰う、肩に引っ張られるというのも抽象的。
しかし、具体的なものよりも抽象的なもののほうが、人それぞれの感性に委ねられるものであり、工夫に繋がっていくように思う。
令和3年12月02日
人は会っていて深めるものもあれば 会わずして深まるものもある
星々の如く多い人との出会いの中で そのえにしというのは極めて稀である
令和3年11月26日
物事の大半は思惑が分かってしまえば取るに足らぬこと。要は利害関係の中での力関係なのである。だからそういうのとは無関係な人間関係が財産なのだ。
学校での勉強の大半はその力を手に入れようとしたものであり、社会に出て悩む大人は多い。そうした思惑と無関係に近い生き方は、都会では失われつつ感じるが、自然とともに、自然を大事にする環境に出れば随分救われるような気もする。世の中はやり直す間もなく急速に変わってきているが、様々なことが半ば強引に押し進められる現在にあって、人が人を苦しめる流れは収まるようには思えない。だから、これからの時代に対する憧れや距離感というものは、これまでとは違うことを感じておく必要がある。
令和3年11月24日
脱力 姿勢 重心 慣性
これらの要素が微かにつながってきたように感じる
令和3年11月18日
昨日の稽古では、体を波に使うことが座り技での受けにも有効であることが分った。また、その気づきのキッカケでもある、立って向かい合い互いに波を感じ突き飛ばす稽古法も、今後の技の展開につながる可能性を感じた。さらに、体を波に使うように整えることで目への意識が薄れ、無意識的な身体使いが導かれやすくなったような気がした。力を抜くことの大事さは基本中の基本であるが、どのように力を抜くかがとても重要である。
令和3年11月11日
昨日の稽古で、抜刀術は浮いている間におこなう必要があることを再認識した。
また「懐月」とう技では、円に動く感覚と、「津波返し」では歩幅が重心移動を追い越さないことが大事だと理解した。
令和3年11月08日
一方が突き進んで行くと、場によっては萎縮抵抗を生み出すこともある。だから、演じることや逆に突き進むことが必要となる。それはエンタメ界を見ても振り幅の上手い人は結果として物事を優位に進めている。だからといって上辺を真似、勘違いをしている動画のようになってはならない。根本が鋭すぎるから必然性があるのだ。
令和3年11月05日
一昨日の稽古で、肩はブレーキになっていることがあらためて実感出来た。
身体をゆるめる稽古は、気がつかなかった力みを感じさせてくれる。また動きの細やかな具合を知らせてくれるようにもなる。
令和3年11月01日
衝撃は岐路となる
想定を大きく外れたもの そこに新たなる視界が開けてくる
令和3年10月28日
身体は心をリードしている
無意識は意識よりも優秀である
令和3年10月25日
無意識に表れるのはその人の心の本質である
心は傷ついてきたことでその本質に通ずる
逃げず流されず生きていくことが研磨となる
令和3年10月20日
この日の収穫は大きかった。
抜刀術では、肩の使い方と姿勢との関連で、抜くまでの間が短くなった。それに伴い、脚足の使い方も小さく速く変更となった。僅かなところにこそ大きな気づきがあるものだ。
抜刀術では、確認から離れ曖昧なままにおこなうこと。これは抜刀以外にも当て嵌まる。
波の使い方にも進展があった。
受け側も波を使うと非常に崩れにくくなる。相手の起こりに合わせ波を使うこと。その波は難しいと思っていた下への力にも大変有効であった。これは最近の中で最も驚くべき事だった。さらに、取り側(技を掛ける側)の波は、非常に速く動くと言うよりは伝わっていく感じで、電気的な感覚でもある。その速さとエネルギーの通し方に、今後波にとらわれない曖昧さの中で研究したいと思う。
令和3年10月18日
今日の剣術で、自分でこれからやるという気持ちと、実際に身体を動かすタイミングは別なものだという実感があった。ふつうは合わせておこなっていることに気付かないのだろう。
令和3年10月17日
「楽しさから芽生える自主性」
人が育つためには自主性をいかに育てるか。正解に縛られないルールの中で、自由に考え自由に実践すること。そのキッカケをどのように与えられるかだろう。
令和3年10月16日
「曖昧さの中の明確さ」
把握に務めず曖昧さの中で実感を明確に捉える。
ある段階から、分かることから分からないことへ動きの質を変えていかなければならない。
それはおそらく自然とそうなるものなのだろう。
令和3年10月13日
背中を波に使う技は、受けとしても波に受けることで威力を吸収することが出来た。これは今日一番の発見。
三十連円打の十三番目の足運び、一歩目を差し換えて使うことでより一層動きが滑らかになった。浮身は流れを止めずその結果操作性が向上する。
令和3年10月10日
三十連円打の十三番目の足運びがこれれまでの一歩から三歩へと変わった。
これにより、身体の動きと杖の動きが連動し動きやすくなった。
令和3年10月04日
技と同様に、力み無く詰まり無く滞り無く、事に当たっていかなければならない。
目標や想定というのは、力み詰まり滞りが生じやすい。その場に委ねること。
令和3年9月29日
今日の気づきで、背中を波に使うことで幾つかの技が、あっけないほど強く利くようになった。波に使うためには脱力してなければならない。
蠢動は張りが無ければ利かなくなってしまう。
令和3年9月25日
学問の始まりは、自らを観察することが起源なのかもしれない
令和3年9月22日
肘のちから、それが背中のちからでもあり、抜刀術でも今まで使えていなかったことに気がつく。ボクシングのコークスクリューブローがなぜ威力があるのか、そしてなぜ使える人が少ないのかも分かった。
令和3年9月15日
今日の稽古で、肩甲骨の開きと重心の変化に気づきがあり、実は無意識的に些細な動きに重心は動かされるのを止めている可能性があることに気づく。
令和3年9月08日
無意識の働きの要素を残しておかなくてはならないから、分析はほどほどにする
令和3年9月01日
腰を落とす際の懐の作り方には手順があり、それによって腰の具合が決まってくる
抜刀術は背骨の柔らかさが大事
令和3年8月25日
剣術「鶴嘴崩し」では、もぎ取る際に回転していたが、浮きを掛けながら体を沈めることと、それに合わせて右前腕と剣を沈めることで一瞬で相手の剣をもぎ取ることができ、回転する必要がなくなり簡略化できた。
令和3年8月18日
剣術「鶴嘴崩し」において、右手を逆手に持ち替えさらに相手の剣を沈めるように使うと、左手で相手の剣をもぎ取ることが容易となることが分かった。
令和3年8月11日
抜刀術は、自分の気配をどう変えられるか。つまり、体術における対人稽古を、一人で自問自答しながら、受けと取りをおこなっている感覚に近い。
「独楽落とし」では腕の使い方が蠢動の働きを最大限活かすことが分かった。これまで散々色んな箇所を点検してきたが、今日ほど確信できたことはない。
令和3年8月10日
物事が廃れる最大の要因は、需要のワンパターン化または習慣化になってしまうことだろう。
供給側にとって、それはリスクの少ない商売となってしまい、そこに人選の入れ替わりがなされてしまう。
つまり需要側、供給側ともに原因がある。
令和3年8月04日
剣術の「反し突き」では、相手の突きを擦り上げる一手間を加えることで対応が速くなり、かつ次への動きが落ち着いておこなえるようになった。あらためて下段の構えは後の先として有効だと感じた。
体術「独楽落とし」では、相手との接触部は掌が触れず、皮膚同士であれば熱が伝わる位の距離、「熱接触」でおこなうと技が通りやすいことが解った。また、肩甲骨の蠢動を活かすには肘を曲げ過ぎていてはならない。
令和3年7月28日
胴斬りに進展があった。左肘が動きにブレーキを掛けていたことが分かり、これまでよりも楽に速く負担無く木刀を振ることが出来た。
令和3年7月27日
剣を振る際に、指が肘を連れていく感じがあった。
これにより、微妙な手順が整い、今まで以上に抜けた感じで剣を振ることが出来た。
体術(身体を使う術)には、微かなことや信じがたいことが「信じられるもの」として検証できる役割がある。
令和3年7月21日
「稽古の気づきは自然の法則である」
その流れ、循環に適う日々の過ごし方から外れないこと
杖術では、中段の構えによる対応が進んだ
相手からの突き、上、中、下、に対する捌き方にそれぞれ進展があった。なかでも玉簾による突きの手の内に変化があり、これにより速さと精度が増した
「眼整」(がんせい)の気づき※(造語)
眼で体を整えること。これにより横隔膜がゆっくりと下がる感がある。それに伴い集中が高まりゾーン(フロー状態)に入る感じがある。しかしながら眼(目)は諸刃の剣である
武術稽古では、一石二鳥以上の働きが気づきになっている
納刀は右手を下げ手の内の抵抗を減らすこと
令和3年7月19日
この日の稽古で、剣の振り下ろし方と体術における体の使い方に共通点があることが解った。
それは、円の軌道と落下の兼ね合いがその目的に適ったものであるということ。
令和3年7月14日
今日の稽古で抜刀術に進展があった。初動の手順であるが、鞘が重心を連れていくようにおこなうと、これまでよりも自然な繋がりで抜けることが実感できた。
杖術では、巻き上げからの打ち込みに派生した技で巻き上げからの裏お辞儀潰し(左)が生まれた。この巻き上げからの裏お辞儀潰しという技は以前からあるが、今回のものは技への入り方が異なり、また左側からの裏お辞儀潰しとなる。そのため、以前からの技を「巻き上げからの裏お辞儀潰し(右)」とし、今回生まれたものは「巻き上げからの裏お辞儀潰し(左)」と便宜上名前を分けた。
令和3年7月12日
正面斬りは、今まで手の動きや肘の動きを意識していたが、背中から動くことで、手の動き,
それらに付随する部分の動きが軽くなり忘れたようにおこなうことが出来た。そして剣を下ろす一瞬前に胸で下ろしている感覚があった。つまり背中で上げて胸で下ろすような感覚。これはやはり背中から動く体術の感覚があればこその操作感覚だと思う。
令和3年7月07日
この日の稽古では、体術「独楽落とし」で触れる手の位置に気づきがあった。
というよりも、以前から気づいていたのであるが、技の誘いにより触れる位置が変わってしまっていた。
令和3年7月02日
自分と向き合うことは人間にとっての自然を探ることでもある
向き合える時間が削られる今の世をどう誘われずに生きていくか
令和3年6月24日
昨日の稽古で、誘われないことから「消す」ことに気づく
身体の前に心の反射、心の先回りが起きていることを実感
技の出来不出来に、このことを実感できたのは非常に大きい
令和3年6月19日
身の規矩を養うために、状態観察を徹底し、現時点での状態把握から、さまざまなものに対する誘いに心身がどう動かされているかを知る。そのためには、基準が必要であり、それが規矩となっていくものだと思う。
令和3年6月14日
同じ裸足稽古でも、道場の床の上では、足裏のことを忘れてしまい、稽古後も足の感覚に変化はみられなかった。これと同様に、体が安心し無関心でいられる状況を変えることが出来れば、身体にとって何か変化が起きるような気がするのであるが…
令和3年6月09日
この日の稽古で、ゆっくり抜き始める抜刀術を止めることにした。これは気配と反射反応を考えたときに、単純にゆっくり動くものでは無いことから、今後は、速度ではない動き始めの工夫をしていく必要があると感じた。
令和3年6月02日
抜刀術における身体の感覚は、体術と同様に先回りの予測に備えた身体の状態が整っているかが重要。常に今の先を精確におこなえるかが大事。抜刀の感覚は抜刀でしか練られないものであり、抜刀納刀でしか馴染まない可動域がある。
令和3年6月01日
夜中に部屋で剣を振っていた際に手の内に気づくところがあった。
つまり、肩の力みを抜くには手の内を抜かなければならず、抜き方として滑らせる手の内が、切っ先の奔りと速さ軽さにつながっていく。これは新しく買い替えた木刀の柄の滑りがいいことでたまたま気がついた。
令和3年5月26日
屋外稽古で杖術に気づきがあった。
一つは、相手の突きに対し、付けるように受け、そこから巻いて払う勢いのまま相手の面に打ち込むという動き。
もう一つは、相手の面へ打ち込み、杖合わせになった瞬間に反対の面へ打ち込むというもの。
浮身がかかることで、ただの二挙動が一挙動でおこなえることに気づく。
その他は、敢えて相手に杖を持たせてから潰すというものを色々と検討。これは、崩し方を比較的容易に知ることになるので、講習会などで多くの方に興味を持っていただける内容だろう。
この日最後は、浮身による手の速さというものを検討。今後はこれを極々小さくして行えるようにすれば、それを応用した技が生まれるだろう。
令和3年5月18日
昨日の稽古で、得物の操作は最初が最後まで付き合わないということを思い出した。
分かりやすく言えば役割分担であるが、ついつい最初に行ったものは最期まで主導権をとったままに行ってしまうものだ。だから無理(違和感)が生じてしまう。
令和3年5月13日
正面斬りでこれまで気がつかなかった肩の詰まりに気がつけた。
そのことにより、剣の振りが楽になり、威力が増した。
稽古環境が変わることでこれまで気がつかなかった部分を感じられたことは大きな収穫であった。
令和3年5月10日
先日河川敷にて裸足で稽古をしたが、稽古後いままでにない足裏の感触に驚く。
道場での裸足と屋外の凸凹した大地の上では、足裏の働きが全然違うのではないだろうか。
手の接触は敏感であり、足裏の接触も然り。その情報を予知できる地面と予知できない地面では情報探査力に大きな違いがあり、そこに何らかの機能が眠っている気もする。推測ではあるが、稽古後の足裏感触の名残と、身体が喜ぶ感じは確かであった。そういえば、運動会の裸足も気持ちの良いものだった。
令和3年5月05日
意識していることがむずかしくしてしまっているのではないか
無意識がむずかしいという思い込み
意識と無意識の混線
簡単なことが正解でありむずかしいことは不正解
なにごとも解らないからむずかしい
令和3年5月02日
頑固さしなやかさ純粋さ
自分を信じること
令和3年4月27日
先日24日の土曜日の講習(マンツーマン)でおこなった滑稽な杖を使った肩の調整法が、今夜自宅で行ってみたがなかなか悪くない。動きが滑稽なので、人に伝えるのはやめようと思っていたが、明日の(日付的には今日の)クラーチ剣術教室で高齢者の皆さんの感想を聞いてみたい。
私自身、ずっと変わらなかった方の具合が土曜日以降、楽になった。調整直後は肩が軽いので、杖を使って無理の無い肩の姿勢作りと浮かせながらの縦振動がなんらかの作用を働かせているのだろう。身体の声は偉大である。
令和3年4月22日
深追いは取り逃がす
無意識の働きには意識が介入し過ぎると、だめになる
令和3年4月21日
「鶴嘴崩し」右手は突き続けながら左足を相手の右膝の裏に入れる。そうしながら左手を逆手でもぎ取る場合もあれば、膝を掛けたまま、柄で押し込んで倒すことも出来る。
令和3年4月18日
体術「独楽落とし」に進展があった。これまでさまざまに検証したが、瞬間的に腰が力んでいたことで、相手の反射を引き出していることに気がつき、自らも腰が抜けるように動くと技が利いた。これは先日気づいた腰の角度にも通ずるが、腰の角度がニュートラルになっていても、動きが強すぎては意味が無い。この気づきは、私が研究している蠢動系の体術として重要な要素である。
昨夜4/16に走り方の気づきがあった。これは腕の使い方によるもので、足のピッチが自然と速くなりウトウトしながら10km走ってしまった。
令和3年4月16日
弱さは強さの裏返しでもあり強さは弱さの裏返しでもある
令和3年4月12日
連日のデスクワークにより、左肩が悲鳴を上げだした。
色々と揉んだり湿布を貼ってもまるで効果無し。
そこで休憩がてら「杖乗解し」をおこなったところ、どうやら前鋸筋に原因がある感じがして、痛気持ち良さに導かれるままに留まった。すると、左肩がほわーっと抜けるように楽になり、ここ一週間ほどの痛みが嘘のように楽になった。
前鋸筋は、私の場合身体の硬さにも関係しているので、あらためてこの部位を解すことに今後は着目したい。
令和3年4月07日
今日は、気づきというよりは、体術で今まで出来ていたことが出来なくなってしまうことがあった。
その原因を一つずつ確認していったがどうにも解らずじまい。可能性があるとすれば先日の土曜日に痛めた左肩かもしれない。今後も身体の具合と技の利きを確認して行くが、仮にそうだとすれば、身体の整え方というものに対し新ためて継続的な調整法が求められるだろう。
令和3年3月31日
今日の稽古で「腰」について得るものがあった。
蠢動や接触技法も利きは仮説であるが、腰の位置というのも何故出来なかったものが出来るようになるのかが良く解らない。だが、この良く解らないというのが大事であり、解ろうと理屈を付けてしまうとその理屈に縛られ、興味と更なる進展に向けた発想が止まってしまう可能性が考えられる。大事なことは「出来るようになる」ということ。
令和3年3月27日
相応にして務めること
この世の中には知らないことのほうが多く、不思議なことも棲み分けられながら存在していると信じるならば、願いや想いの実現というものは単に自分だけの力ではないということを知っておかなければならない。
令和3年3月21日
感謝と礼儀は、思考法の固着による成長の低下を戒めるものであり、自発的に、形式的でなく、その想いが伝える為でなく一人自然と湧き起こるか。自らの心と身体の道標は感謝と礼儀にあるのだろう。
令和3年3月16日
人は人と会って人らしくなれる
令和3年3月15日
今日の稽古で、接点の当たりが強いと相手の反射反応が引き出されてしまうことがあらためて解った。力というのは、接点では無いところに働かせ、詰まり無く通していくことで崩せてしまうことがある。解っていても、こういうものは無意識的な部分にある程度の経験が必要となる。師の導きがあり、自得することで進展に入れる。
令和3年3月10日
背中の感覚に進展があった。昨日3/9その現象に気がついたが、今日の稽古で再検証。
背中のある部分の感じが左右に繋がり、肚が落ち着き、視界にフィルターがかかったような状態となる。
肚の意識の前に背中の感覚を作り出すこと。今はそこに何かを感じる。
令和3年3月09日
身体の状態が変われば性能も変わる
令和3年3月06日
生きていく中で幸せであることの一つには、不安を無くすことである。
そのためには、信じられるものを見つけることであり、その信じられるものは自らの身体にある。だから、身体を信じ、研鑽していくことが大事であるが、信じることは簡単では無い。
令和3年3月01日
蠢動は相手の予測が不足となり、接触の皮膚感覚には、反射を鈍らせる働きがある。
つまり、いずれも相手の無意識の計算から外れているということ。
令和3年2月24日
ゆっくりと抜き始める抜刀術に「柄の送り」が再び使えるようになった。
令和3年2月20日
「状況は風の吹くままに」
抗うことを止め、風に身を委ねるしかないこともある。
答えは風によって変わるものだから・・・
令和3年2月15日
抜刀術の初動と、脚部の連動に気づきがあった。
剣術も杖術もそうであるが、足が地に着く寸前に働かせることが重要。
令和3年2月10日
接触技法について大きな発見があった。
これは蠢動と合わせて使うことで、立っている相手の腕を片手で引っ張り下ろして崩すというもの。横方向、前方向、片襟を持たれた(胸ぐらを掴まれた)状態でも片手で倒すことが出来た。この接触の使い方は今まで考えたことも無いものであるが、人間の不可思議な作用が何らかの働きに応じているとしか思えない。今後益々この技「撫で落とし」について深めていきながら展開させていこうと思う。
令和3年2月09日
武士は食わねど高楊枝
現代において、貧しさや空腹に代わるもの
心の貧しさは情報社会の刷り込みでもある
令和3年2月03日
杖術にて抜かれた際の対応と打ち合った際の対応を稽古に取り入れることができた。
これは瞬時の対応を養うものであり、心の状態と身体の状態において常に問われるものがある。今までにないものを育てていかなければならないように感じる。
令和3年1月31日
幸せは自らの心にある
言葉は心の鏡であり眼は真を映すものである
令和3年1月26日
人を求める前に環境を求める
人は自ずと現れる
不満の原因は人ではなく環境にある
その場にいる自分に責任があるということ
令和3年1月23日
新たな四方斬りが生まれる
令和3年1月22日
人は忘れるもの
形は崩れるもの
だから毎日を大事にする
令和3年1月20日
手の内がシットリした感じ、手の内の精確さ
納刀は肚を沈めるように
浮き身の足使いは似て非なるものに陥りやすい
令和3年1月15日
気にする必要は無い
今その瞬間が自分らしくあれば
だから、本来の自分になれる時間が必要なのだ。
令和3年1月14日
背中を働かせる左右の腕の使い方に得るものがあった。
予測力、把握力、対応力、それらを養いながら、無意識的に動ける事を目指すことが現時点で考えられる武術の動きとなる。相反するものが一致する。
令和3年1月13日
気配とは見えるものでなく反応できるもの。気配のない動きは、踏まなければならない筈の手続きを省いたものである
令和3年1月8日
受け入れる体制が出来ていること
日々の判断と取捨選択の判断。停滞しないことが闘いであり、そこには労いや穏やかな時間も含まれる。が、それらは闘いがあっての時間である。
令和3年1月3日
勉強しないと馬鹿になる。勉強しても馬鹿になる。だから馬鹿にならないように生きるのだ。
腑に落ちることと腑に落とすこと
令和3年1月1日
変わり続けることを忘れるな
過去の自分に足を引っ張られないように、振り返ることばかりせず、今の状況に合った、そしてこれからの状況に目を向けた変化を自分に求めなければならない。去年の自分に、さようなら。
身体と心の気づき(令和2年)
令和2年12月31日
どんな年であろうと、人は前を向いて行かざるを得ない。2020年という年は、これまでになく世間の出来事と情報に距離を取り、私のこれまでの生き方を認めて貰えたような一年であった。明日2021年からはまた新たに一日を積み上げ、漠然と描いてある私というものに近づいていこうと思っている。今年同様大きな一年になるだろう。
令和2年12月30日
肚に眼を持ち心に口を持つということ
令和2年12月27日
現代において三猿の教えを阻んでいるのは何なのか…
そのことを念頭において事にあたることが望ましい。
令和2年12月22日
杖整体操は、身体の深部へ届く心地よさが得られるが、その時に「肚の落ち着きを覚える」ことも重要だと気がついた。これは経験上、間が空くと無くなってしまうものなので、あらためて杖整体操の必要性を感じる。これは宣伝文句ではないので、講習会は開催しないが、自らの調整法に則ってこれからも身体の奥を感じ取りたい。
令和2年12月16日
武術稽古では身体から誘われない心に気がつき、日常生活では心から誘われない身体に気がついていくこと。
令和2年12月15日
武術における普遍性とは、誘いに対する対応法ともいえる。
誘いには、不安や焦りといった心理的事情が関わっている。
令和2年12月09日
「身体を割って使う」ということ。
とくに背中について気づいたことが大きい。
令和2年12月05日
インターネットの急速な発展は、人が人らしくあろうと省みる時間を奪ってしまった。
令和2年11月29日
背中の働きと左右の表裏が実感出来た。
あらためて背中と言うのは片側だけでは使えないものであると認識した。
令和2年11月25日
「情報の断捨離」
結局のところ、情報化社会における大半の情報は無駄なものである。
その無駄に人々は時間とお金を詐取されている。
だから世の中は空虚になったのだろう。
情報の断捨離を敢行し、自らの時間とこれからの時間を実のあるものに変えて行かなければならない。それを選ぶのは己の実行でしかない。
令和2年11月22日
「一手間の光明」
急ぐほどに遅くなる。逸るほどに出来なくなる。
一手間に気が付くことが大事であり、それはもしかすると生きていることも同様に言えることなのかもしれない。
令和2年11月15日
「流儀の拍子」
今日の講習中に思いもよらず言葉に出たが、それは動きの基盤となっている基礎稽古に関係している。
令和2年11月11日
抜刀術において足の使い方に気づきがあった。気づいてしまえばどうして解らなかったのか不思議であるが、得てしてそんなものである。それだけに独特と言えば独特な操作であり、見ても解らないものである。
令和2年11月08日
「国の繁栄と精神性」
かつての日本人の精神性がこれまでの繁栄の礎となっており、その精神性に関わる時代背景が、人々の心に刻まれた深い部分であり、それは経験してはならないものであるが、経験しなければ成し得ないものでもある。そうした悲しい過去を経験せずとも、精神性を学び普遍的なものとしての思考になっていけば、まだ救いがあるように思える。そこには、宗教や武道武術の本来の目的がそこにあるのだが、果たしてそれがどのように表れているのか…
令和2年11月04日
体術「引き込み潰し」の応用で反対方向へ相手を崩せることが解った。これは、引き込み潰し同様、両手で襟を掴んでくる相手に対しても有効であった。
令和2年11月02日
「静の集中」と「動の集中」その表裏からなる実を稽古しなければならない。
令和2年10月27日
背中から発する、得物に身体が引かれる、共通しているのは体幹部が緩んでいるという事。この「緩みの大事」が実感を持って再認識させられた。
令和2年10月26日
昨日25日に気がついた背中の発力には、時間を掛けてはいけないという事。そこに実感が残ればそれは失敗なのである。
令和2年10月21日
「匂いのような感覚」
理屈は必要でもあるが、理屈で出来るものではない。その曖昧な中に敏感な良し悪しがあり、その思いの中に匂いのような感覚がある。つまり良いか悪いかだ。
令和2年10月16日
信頼出来るか否かはこれまでの行動にあり。
言葉は言葉でしかない。言葉でしか伝えられない場合は、行動に繋がる思いがどれほど偽り無く込められているか。そこには互いの行動の繋がりが信頼の証である。
令和2年10月15日
剣術の下段からの正面斬りに気づきがあった。
円転軌道の場合、真っ直ぐ振るものを真っ直ぐ振ってはならないということ。
令和2年10月12日
人というのは最終的には精神のリスペクトであると思う。
だから武術を学んでいるのかもしれない。
令和2年10月10日
時間が過ぎるのを待つ人生よりも時間が過ぎるのを惜しむ人生にしたいものである。
令和2年10月08日
1949年に旺文社から創刊された大学受験用の参考書「傾向と対策」この言葉は、もっと以前か使われているものと思っていたが、この時が初めてである事を知った。今の私にとっては言い得て妙である。
令和2年10月05日
素振りは動作の基盤を点検するものであるが、それだけに基盤の稽古を疎かにしてはならない。
令和2年10月02日
今の時代の閉塞感はネットが人々を同じ空間へ呼び込んでしまったことにある。
これからは、何を相手にしなければならないのかを、道を進んでいく上で、視野を広く考え実行していかなければならない。情報ツールにより失われてしまった心の部分を、まだ間に合う方とどのように共感していくことが出来るか。情報は心を奪い、心が奪われれば情報を求める。そんな世の中になってしまった。
令和2年9月30日
心というのは真似できないものであり、真似しようともしないものである。
令和2年9月25日
抜刀術で背中の意識が重要であることが確認できた。
令和2年9月21日
実際に人間は脳をどれだけ使用しているかは謎であるが、それを引き出すために身体は不可欠であり、感覚を追求し未知なるものを得ていくことが必要である。その未知なる物とは無意識からの贈り物であり、無意識から意識へ、意識から無意識へ、まあもっと適切な言葉があるだろうが、この無意識との関わりが人の持っている能力を引き上げ、何かに役立てることが出来るのだと信ずる。
令和2年9月17日
案山子落としの方向に気づきがあった。
これにより、相手は足が出にくくなり倒れやすくなる。
令和2年9月16日
歩幅に一つ得たものがあった。
ある方向によって身体が割られるものがあり、それを防ぐ必要がある。
弱いと思い込んでいたものが実は強かったりするからやってみることである。
足裏の均等圧力は浮き身によって養われる。それが姿勢の整え方を無意識的に学ばせている。
令和2年9月15日
姿勢は足裏で感じること
無意識で行っていたことをあらためて理解したようだ。
令和2年9月13日
自省が実践できない大人は何を語れるのか。
表面の取り繕いはそこから始まっている。
令和2年9月09日
強く打ち込む、または斬るための身体の働きと、無理なく振る身体の働き、そこに必要範囲内でおこなえる相反するものを如何に成立させるか。
一つ具体的な課題が舞い降りてきた。
令和2年9月08日
境目には情報収集機能が発動される。そこに心理的要素、感情的要素が多分に注ぎ込まれ情報処理をおこなっている。それは身を守ろうとする本能的な作用であるが、身体的にも精神的にも境目は馴染ませた方がよい。そのことを見極められるかの身体観が問われる。
令和2年9月01日
コロナ禍はテレビ禍でもある
令和2年8月28日
昨日の稽古で突きに進展があった。
座り一点接触からの崩しと同様に、背中の発力が使えるようになった。
これまでにも試みたことはあったが、足との関連が解り威力がこれまでに無いものとなった。
令和2年8月26日
「独楽落とし」に大きな進展があった。
これまで対応されていた姿勢をとられても、呼雀を用いることでこれまで以上に崩せることが分った。通じなかったものが、より利くようになるということが、釣り合いの均衡であり興味深いものである。
令和2年8月25日
人々が「慣れ親しむ」というような生活は既に終わりを告げてしまっているのか。
ITに抗えない世の中は、慣れ親しむ生活を置き去りにしてしまうものである。
だから置き去りにされても生きていける生き方が幸せなことだと思うのである。
令和2年8月20日
「案山子落とし」は、重心と浮き身を使う事でより利きが向上した。
蠢動、接触、方向、落下、それぞれに精度が求められるため体術としての稽古が進む。
令和2年8月15日
見極める心と身体が失われつつある今、多数決に一体何の信憑性があるのだろうか。
情報が限りなく発達した今、見極められない出来事で混乱が生じている。
令和2年8月12日
「蠢動と接触」は技をおこなうためにはとても重要である。
そして「体と腕の同調」も重要である。
令和2年8月11日
人は成長するということもあるが控えていたということもある。無理に我を出さず、状況に応じて合わせられるか或いは抑えられるかが見える人には見えるのだろう。
令和2年8月06日
呼雀(よびすずめ)を体術に応用し新たな技が誕生した。
相手を引き落として投げるものと、背後を取りそのまま引き落とすもの。
いずれにも呼雀の発力が強く、加減してやらなければ怪我をさせてしまう恐れがある。
咄嗟に呼雀以降の動きが自然と出たことに自分でも驚いた。
令和2年8月04日
結局のところ、人はその場に応じたことをしているに過ぎないということ。
その場を選んだ自分に責任がある。
令和2年7月30日
「蠢動」は動きだしがとても重要であるが、「独楽落とし」に関しては異なる。改めて振り飛ばしで精度を確認する稽古の重要さが分かった。
納刀は中心を大事に操作すること。
令和2年7月29日
体術「独楽落とし」に進展があった。
沈めようとせず、相手を回転させることで自然と崩れていくことが解った。
そのためには自らも独楽になるという事。これが今日の気づきである。
令和2年7月26日
「知る者は言わず言う者は知らず」
有名な老子の言葉であるが、最近納得した出来事があった。
世の中は幾層にも連なっている。
令和2年7月21日
人は鈍感さと敏感さが無ければ破綻してしまうということ。
令和2年7月20日
人を信じ切れないことに問題があるということ。
勿論信ずるということは難しいことであるが、信じなければならない、例えそうではなくとも信じるべきことがある。日々細胞は生まれ変わり状況も変わり続けて行くが、なるべく、いやもっと強く、このことを信じなければならない。それを疑うということは己がまだ未熟であるという事を心得ておく必要がある。
令和2年7月17日
抜刀術において、速く動くのではなく、重心に速く動かされることが解った。
その重心の使い方が難しいのであるが、あらためて気配や誘いと言うのは、技法があって心理的に働くのだと、これまでの思考を巡らせた中で最も納得が出来た。だが、まだその事を結論付けるには早いので、現在の抜刀術稽古ではその辺りを身体に探究していただこうと思っている。
令和2年7月13日
人は誰でもそうでありたい自分で過ごすことは難しい。
家庭であれ職場であれ学校であれその中で周囲に合わせた自分を出現させなければならない。
一週間の間に一日でも、本来の自分でありたい環境に身を置くことができれば、それは生きていることを実感していることになっているのかもしれない。
死にたくないという思いの一つには、生きている実感を得られぬまま我慢し続けてきた自分の姿のままでは終われないという思いが引っ掛かっているからではなかろうか。
自らを現す場に出会えること、そして本来の自分と向き合う事。
令和2年7月10日
「能動的無意識からの学習」
これは、今日のブログ内で生まれた言葉であるが、身体的確信を持った言葉である。
詳細は記事に書いているので割愛するが、学びと言うのは身体の感覚を自ら総動員して働かせることで、無意識のうちにさまざまに学びを得ているのだ。そうした能動的な学びの思考法は生きて行く中での学びに直結する。
令和2年7月09日
縁が繋がり場が生まれる。時が流れ縁が広がる。
今を疎かにしないこと。
令和2年7月08日
そもそも食事とは身体に身体に負担を掛けるものである。
生きて行くための栄養源として欠かせないものであるが、負担を強いていることも感じられなければならない。そういった部分での意識の在り方はとても難しい。
令和2年7月07日
蠢動から技を掛けるには、蠢きを止めずにおこなうことが肝要と言える。
令和2年7月03日
「武術と論」
そこに身体が在って感覚的に得たものは心理や気づきを学習し続ける。
だが、身体で得たものが如何なる状況で、その透明度と真摯さにあるか…それによって導き出されるものは全く違うものになる。
令和2年7月01日
「蠢動」からの崩しに進展があった。前回おこなった横倒しよりも不思議な崩しである。掌の接触により信じ難い程に相手を動かせ下へ崩す事が出来た。
これには、微妙な接触技法が求められるが、蠢動が無ければ意味を成さない接触技法であるため、これからも展開が予想される。
令和2年6月26日
なにでお腹を満たしたかと同じく、なにで体を動かしたかの差は、その後の身体にとって大きな違いとなる
令和2年6月24日
「無意識だったものは意識しなければならないし、意識していたものは無意識に出来るようにする」
成長とはそういうことなのだろう。
令和2年6月23日
「状況に誘われず心理的に力みが抜けていられるか」
この事が、実感として理解出来たような気がする。ただ落ち着こうとするのではなく、その状況に求められる身体の無理のなさが、構えであり、動きであり、残心と同じように、状況に誘われる違和感を感じ取れるか、それに対しどう身体を調和させていくかが、心理的に作用するものだと思われる。それを無意識に身体調整出来るかが試されているところでもある。
令和2年6月20日
蠢動からの技が一つ生まれた。蠢動には、相手のバランスを蠢動特有の崩し方で崩せることが解った。だが、蠢動だけでは崩せないので、全体の調和による働きは稽古で習得していく必要がある。
令和2年6月16日
やはり二ヶ月間の間に身体の状態はこれまでとバランスが変わってきている。
淡々とやっていたものが、怪我につながる可能性も考えられえる。
今日は少し右肘に違和感を覚えたが、身体各部への観察を高めておかなければならない。
いかに、日々培っているものが大事であるかということ。
令和2年6月09日
袈裟斬りにおける前足の使い方というのは、感覚的に難しいものがあり、未だに安定しないものがある。それが良いのか悪いのかは別にして、この前足の上げ方一つで。身体全体に感じる一致感がまるで変わってくる。その一致感を探すために試行錯誤しているのであるが、今日は前足の引き上げに進展があった。薄紙一枚とまではいかないが、そこを目指す脚部の操作に身体が応答した。
令和2年6月04日
直感には、無意識的な辻褄を感じている部分があり、想像とは異なり、感覚的に、または感情的にどうしてもそうなってしまうことがある。経験上、のちにその事が外れることは少ないので、どうしてもそのように感じてしまうものが直感であると思っている。直感を磨くには、経験と見極めの時間が関わってくるが、そこに武術稽古も大きく働いている。
令和2年5月29日
「資質」が善悪の判断や言動に大きく関わっているということ。
この資質というのは、その人自身の揺ぎ無いものであり、揺ぎ無いからこそ資質を見抜くことが大事である。知識や感覚は身につけられても資質を変えることは不可能である。資質と資質、それが相性ということなのだろう。
令和2年5月24日
5月22日の稽古で「蠢動」の凄さをあらためて実感することになった。
立っている相手の両肩に触れた状態から、横に回転させるように沈むだけで倒せるようになった。技が生まれた瞬間、言葉を失ったのは今回が初めてであった。
令和2年5月19日
願いは誰でも叶えたいものだが、そこに念が掛かっているかどうかが、その願いが叶う願いなのか叶わない願いなのかに分かれるのではないだろうか。
すなわち、生涯かけて弛まぬ念が願いとなるならば、それは叶う可能性も高く、またそれ以上に価値のあるものなのかもしれない。
令和2年5月15日
「有るものからは何かを探し無いものからは得られるものを求める」
つまり、無いものから探してはならない。ただ、求める嗅覚は鋭く
令和2年5月12日
時代や年齢に応じて変わらなければならないものがある。
それは、変わりたくなくても変わらなければならないし、変わるべきときに変わることが出来ていれば、迷いや病から距離を保てる。
つまり、時代や年齢に応じ形作られるものがあり、そこにどう踏み入って行けるかがある時期から難しくなってくる。そこに気がつき実行出来るか、さまざまな眼が求められる。
令和2年5月08日
昨日の記事でも書いたが、剣で作られる身体の大きな点は、その手之内の指にある。
指一本一本から伝わる前腕、上腕、肩甲骨、背中全般に至る筋の働きは、意識的よりも無意識的に調整している部分が多い。そうした細やかな感覚の追求により作られる身体が剣で作られる身体と言えるのだろう。もっとも、それだけではないのだが…
令和2年5月01日
人は絶妙な制御で滑るものに感動を促される。
そこには危険であり不安定であることが大きく関係している。
それは、安全であり安定しているものとは逆であり、そこに体感的にも視覚的にも、興奮に近いものがある。この「危険を制御する」ということの中に、限界突破の働きがある場合も考えられる。武術的には、危険を制御することが求められ、そのなかに滑るという動きも起こりうる。身体の調和した働きの中で、何かがそれを塞いでいるときには、危険を制御することが一つの教えになっていると思われる。
令和2年4月24日
表裏というものは、表の中にも表裏があり裏の中にも表裏がある。
現象に対する表裏とは如何なものかを見つけられるかが重要。
身体から発するエネルギーの伝達には、芯となる強さだけでも無く、抜けた柔らかさだけでも無い。相反する剛と柔を一つの中に取り入れておこなう。これは矛盾を住み分けそれぞれの役割を活かすものであるが、矛盾であるからこそ気がつき難い、そこに何らかの表裏からなる実があるようにも感じる。
令和2年4月19日
「こんな時こそ心を豊かに」
人間は、何かに没頭するものだ。
その没頭がその人の心を養っている。
今は多くの人が本来の没頭を奪われているが、心が豊かでいられるか否かは、この時期の没頭に関わってくる。
知識や情報は確かに有益であるが、今の時代は決してそうとも言い切れない。
芸術や武の力が生まれた背景を考えれば、逆境からではなかろうか。
たんにビジネスとしてではなく、逆境に対しても豊かでいられるかが対応法として今は求められるものだと思う。
弱さを豊かさへ。
令和2年4月14日
原稿を書いている段階で、蠢動には「弱所散助」(じゃくしょさんじょ)の働きがある。という言葉が生まれた。読んで字の如し、外部からの入力に対し、身体の弱い箇所を散らしてこれを助ける働きがあるという意味である。
令和2年4月11日
「蠢動」に進展があった。
まさに名前の通り蠢くが如くおこなうことでこれまでのなかで一番の利きが確認できた。
振動でもない、響きでもない、蠢くようにおこなう。
それぞれの術理により上記の種類は異なるが、蠢動には気がつきにくいものがある。
そこに気がつく事で、蠢動の蠢動たる利きが実感できる。
令和2年4月8日
剣術における「手之内の締緩(ていかん)」
手之内の重要さは各流派で言われていることであるが、無意識のうちに実に目まぐるしく動いているものである。単に握りの形や緩め具合といったものではなく、コンマ数秒の間にさまざまな変化を左右でおこなっている場合もある。こうした手之内の締緩は、剣術のみならず、杖術により養われることが大きい。それはおそらく、気が付けばそうなっていたという順を踏まえたものであり、今すぐに意図的に出来るようになるというものではないだろう。しかし、そのことを知っておくことは重要だ。
令和2年4月4日
副交感神経を優位に働かせるにはヨガの瞑想など、呼吸に関するものが幾つか挙げられる。
一昨年の6月に考案した杖整体操もそうした働きがある。両手を重ねておこなう誘導と対応の心身調整法も、元は相手の誘導に無意識的に対応出来ることを目的におこなっていたが、これは瞑想に近い効果が得られることが解り、呼吸と掌の僅かな引き合い接触が集中を高め、五分程の短い時間でしばらく目が開けられないほどの心身の落ち着きが得られるものとなった。今夜走りながら、あらためて呼吸を大事に意識し、気持ち良さを外さないように集中することで、走りながらも眠気が訪れるような感覚があった。すなわち、呼吸ともう一つ何か集中できるものとの二つがこうした副交感神経を優位に働かせる要因になっているのではないかと感じるのである。
呼吸のリズムや音をつけるようにおこなうのも、呼吸の意識を忘れないようにおこなうものであり、走っている景色がまるで実感が無いように感じるのも視覚の集中を減らし、内部への集中に集まっているからだと思う。そう、視覚を忘れるということも重要となっている。その状態が、ただの心地よさ、リラックスだけに留まらず、なにか脱力の新たな世界に通じればと想像しているが、そこが上手く合致するかどうかは今のところ分らない。しかし、今月は道場で稽古が出来ないという未だかつて無い状態となったことで、なにやら大きな気づきが訪れるような期待もしている。まあ、そう上手くはいかないだろうが…
令和2年4月1日
「脱力のちから」
蠢動が全く利かずさまざまに検討した結果力みが蠢動の働きを抑えていたことが解った。もちろんこの事には気がついていたのであったが、代わりに別の術理をおこなっていた事で、蠢動の使い方が変わってしまっていた。
今回は、脱力により蠢動の利きを見直す事になり、再び蠢動に対する関心と興味が湧いてきた。これの最も興味深い点は、弱い状態と強い状態が紙一重という点にある。
令和2年3月31日
失うものがあれば得られるものもある。陰と陽には森羅万象通じるものがあり、其の規模に値するものでもある。自然とは、太古の昔からそのようにして成り立ち、形を成しては破壊し、自然=意思 の働きが何らかの存続を意図している。人類も、その役割の一つにしか過ぎない。だから自然という意思からなる意図には抗うことはできない。しかし、それもこれも全てが自然という流れの一部なのだろう。
令和2年3月26日
今日の稽古で座り一点接触からの崩しに三度進展があった。
背面の意識と、左右の使い方に足が加わることで、さまざまな方向から一気に崩すことが可能となり、いなされず留まることなく余裕を持って崩すことが出来た。
令和2年3月22日
座り一点接触からの崩しに更なる進展があった。ロードバイクのKさんを後方へ飛ばすことができた。背面の意識であるが、今後はさらに研究したい。
令和2年3月19日
両手を重ねた誘対法で、これまでになく深い状態を経験した。
集中と呼吸がこれに関わってくると思われるが、その他の要因もあると思われる。数ヶ月ぶりにおこなったことも関係していると思われるが、瞑想に近い、いや瞑想といえる心身の落ち着きと、僅か10分足らずであるが、終了後暫く目を開けられないほどの状態となり、特に大きな動きはないのであるが、全身が弛み、立っている状態が、真っ直ぐに立っていることを実感出来るものとなった。身体を伸ばしたり体操的なものは一切していないが、心身の状態が僅か10分足らずでこれほど変わるのかと驚いた。
令和2年3月18日
体術稽古で、座りによる一点接触からの崩しに大きな進展があった。
相手が有利な膝立ちで立っている姿勢からでも後ろに崩せ、さらに立って中腰にこちら側へ重心を掛けて押し込まれている状態からでも正座から押し返すことが出来た。
令和2年3月17日
「生きていることそのものが逆境である」
恩恵も報いも陰と陽のようにかならず付いて回るものである。
だからこそ、問題をどう解決していくかという事を自得して行かなければ生きていくことが苦しくなってくる。その自得をどう積み重ねて行くかが本来の学びであろう。
つまり、生きて行くという逆境の中で、問題解決に必要な自得を学び続けて行くということが、人が生きていく上で求められているものと言える。
令和2年3月14日
「気が付いたことは運命であり気が付くことも運命である」
その時は辻褄に沿っている
令和2年3月13日
「中心と向き合い中心を練り中心を使い中心を労る」
技法の根幹部はここにあるように思う。
ここで言う中心とは、全てを遡った地点であり、その中心というものを探求しながらこれをおこなう必要がある。つまり中心というものを実感し知り続けて行くことではないかと思うのである。
「一人稽古で規矩をつくり、対人稽古で中心を練る」
勿論これだけに留まらないが、稽古の根幹部にあると言える。
令和2年3月11日
「中心を取ることと摺り足の関係に気がつく」
「身体は真っ直ぐに使うことで中心圧力を掛けやすい」
「中心感覚を練る稽古は抜刀術や納刀の精度を高める」
本日は、中心についてさまざまに稽古した結果分ったことである。
中心を取る、或いは中心圧を掛けるには、見かけ上の水平方向も大事であるが、姿勢と左右の足裏に掛かる重心の偏りも大きく作用している。それにともない、肘が身体から離れてはいけないことにも納得がいった。
令和2年3月10日
「目から得ただけの情報はじきに居心地が悪くなる」
目の情報に繋がる身体の居心地を感じ取り、そこで得たものから目を切り離すこと。解ったということは身体を通して居心地よく実感できたものであり、居心地を実感出来ないものはただ同じようにしていても、それは解った内には入らない。
見抜くもの、原因究明には目の先にあるものでなければ気が付けないものである。
現代の最たる問題は、目に見える情報のみで思考を働かせる習慣を世界中の人に植え付けてしまっていることにある。
それはすなわち、居心地の悪さに陥っていくスパイラルとなっており、目の情報というものは、魅力的で直ぐに心地よく感じられるものであるが、その実、本来の心地よさの置き所はその先にある実感への信頼であり、目先の情報というものは実感に至らぬとらわれを生じるものであり、信頼出来るものではない。結局のところは自分と向き合い、そこに生ずる居心地から何を思うかが本当のところであるといえる。人はそれを無意識に避けようと習慣付けられている。
令和2年3月5日
「考えを当て嵌め過ぎず行けそうなところにいく」
「身体ができて感覚が生まれ無意識が統御する」
昨日の戸越体育館での稽古で発した言葉であるが、身の規矩(かね)が出来て来れば、無意識的な予測が規矩に働き掛けてくる。その働きこそが技への手がかりであり、理屈と経験だけでは得られないものなのである。
令和2年3月3日
「自己完結型思考は登山の途中で見える景色に妥協しそこで止めてしまうようなもの」
つまり諦める理由を自分に納得させるようにしているということ。子供の成長が早いのは一つには、自己完結に逃げる経験がまだ無いからである。
令和2年2月29日
講習の合間の一時間で、剣術の「正面斬り」が変わった。
腕を上げる際に上体が沈む働きのあることが解り、そのまま沈ませることを先行させながら、振り下ろすことで今までに無いほど、楽に剣が振れるようになった。見た目には殆ど解り辛いが、実感としては大きく異なる。皮が向けるほど思わず何度も振ってしまった。
令和2年2月27日
抜刀術が大きく変わる事になった。
非常に難しくなるが、上達のために今よりもっと下手になるのを覚悟しなければならない。
静から動への瞬間的な移行を目指したものから、ヌルッと把握し辛い動きに全てを変更することにした。数年前に考えた事もあったが、技としての技たらしめるものを感じていなかった(未熟がゆえに)ためやろうとも思わなかったが、今日の稽古で色々な要因がようやく「居合い」というものに微かに近づけるものになるのではないか…という、そんな気配を感じた。
令和2年2月24日
そうでありたい環境に近づけたのなら、応えてあげられるものへと変われるよう努めなければならない。常に一瞬が試されている。
令和2年2月23日
想定は、その先に対応し辛いものである。だが、いつの間にか想定を立ててしまう。想定が甘いからなのか、想定に縛られているからなのか、その両方であろう。想定のレベルを上げるなら、想定しない対応力を養っていかなければならないように思う。守りやパターンというのは、既に何かが変わってしまっている。
令和2年2月20日
目で見たものを如何に身体で感じられるか。
また、そのようになっていく稽古を重ねていかなければならない。
剣術で構えによる剣の理に興味が向き始める。構えには一長一短があり、各構えに応じた理合いがあり、それを探りながらも、「一つの構え」というものを見つけたい。各構えに対する各構えの応じ方があり、そこに多くの流派が考えたであろう秘伝がある筈である。そうした理合いに甘んじることなく技法を追求し、一つの構えへと通じていければと思う。
令和2年2月17日
数メートル先の段差を右足で跨ぐか左足で跨ぐか分かるのも無意識の予測ではないだろうか。
また、その右足か左足かの感じ方も不思議なものである。
最後の瞬間を無意識で身体が予測して動いている。
抜刀術などは、予測を育てる稽古であるが、その予測とは、意識的なものでなく、無意識の計算を働かせている。
シンプルな動きの中で、身体(無意識)が意識に伝える違和感や心地よさというものを、常に確認し進展させ続けて行くことが、各種動きに繋がり、それはすなわちその人にとっての基本の動きと言えるのだろう。
基本が進展せず、変わらないものであれば、身体が進みたがっている違和感を意識に訴えかけても基本が足を引っ張ることになってしまう。
基本には、言葉による思い込みが介入しやすいものであり、自らが基本を作り練り上げていくことが重要かと思う。
令和2年2月14日
「脳との対話」
心の状態を安定に保つには脳(無意識)からのサインに耳を傾けてあげられるかに関わってくる。 逆に心の状態が正常に保たれていない場合は、そのサインに耳を傾けず気づかずに末端の意識だけで言い聞かせているだけである。 そこに知識や情報というものが尚更我の意識を強くしてしまう。知識や情報は必要であるが、自らが自らを探知するには邪魔となる場合が多い。 お腹が空いて何をどのくらい食べたいか、体のために何を食べたいか、そうした欲求が強く関わる声には毎日応えようと務めているが、その他のサインには、感じようとしないものである。その代償はさまざまに表れるものだということを私たちは知っておかなければならない。
令和2年2月11日
「表裏の見眼」
これは昨年暮れごろに気がついた、目に誘われるものは表、目で見ず眼で観たものが裏。その表裏一体となったものが技であり、人であり、全てに通ずるものごとの本質であるとみなす。技の理解、人の理解に通じるのもその表裏の見眼にあり。
令和2年2月10日
「隙がないというのは、隙を出しながら見事な対応をおこなうことに本来の隙のなさがある」
また、「誘いを掛ける」というのは、単に虚を示すのではなく、相手の腹積もりや本質を見極めるための手段ともいえるだろう。
令和2年2月9日
「どこに目付けができるか」
合わせる必要のないものに考えを巡らせないこと
その労力は、目の付け所に向けた方がいい。
令和2年2月6日
体術「触れ手落し」が昨日5日の稽古で大進展した。
これまで、受け手が強く耐えていた状態では潰せなかったが、今日は受け手側も身体が強くなる術理を駆使し、さらに半歩足を出していただいた状態でも膝がつくまで潰すことが出来るようになった。これにより突きも威力が向上し、体術における発力の基盤を練る稽古が見つかったように思う。大きな一日であった。
令和2年2月5日
「言わないことと訊かないこと」
これで十分に通じるものがある。否、だからこそ通じるのかもしれない。
見習うとは安易なものではない。
令和2年2月4日
「どこまで捨てることができるか、忘れることができるか」
流れが自然であるならば、成長に応じて、感覚に応じて、習得した時(当時のレベル)のものを頼りにしてはならない。基盤となるものは、常に感覚的に追求し、進展に陰りが感じられるなら、それは大きな変革を身体が求めているものである。自らの脳にある記憶の引き出しは常に点検整理しておくこと。執着と捉われは妨げとなる。そのことに気が付けるか。
令和2年2月3日
「行き(生き)詰まったときは感謝する」
目標や希望には、人間の行動を突き動かすエネルギーとなっているが、そのエネルギーに見合った結果が訪れないと、決めたはずの行動に対するエネルギーが変わってしまう。当初の希望エネルギーが尽き、代用品として犠牲のエネルギーが我が身を消耗させながらそこに誤った思考を植え付けてしまう。状況の変化、流れの変化は自分ではどうする事も出来ないので、目標や希望は生きていくエネルギー源として必要であるが、明るいエネルギーが足りなくなってしまったときには、一旦現状を見渡し感謝することで、幸福のボーダーラインを設定し直すことが出来る。そこに向かって希望エネルギーとともに再度歩みだすことができるのだ。このボーダーラインを固定せずに上昇下降させながら、感謝と幸福の実感を得て行けることがその人にとっての救いにも繋がる筈である。
令和2年1月30日
これは気づきというよりは、想像であるが、所謂身体の中を使うということは深層筋の働きを使っているが、この使い方を工夫しなければ身体がガチガチになり易くなり、首、肩、肘、などへの怪我のリスクを高めるものとなる恐れがある。そのため、中を使いながらも分散させ、誤った実感(固まった=力を発揮した)というような事を繰り返さず、それよりも有効なものへ工夫し自得できるような取り組みが必要である。そして、杖術というのは、使い方によっては硬くなる恐れがあるが、武術としての操法でありながら同時に身体調整のための操法でもある。これは可動域を広く使うことで深層筋を解す働きが動きの中にあるからだろう。杖整体操も深部に届くものであるため、それらを合わせた稽古というのがこれからも稽古を淡々とおこなっていくためには欠かせないものであると、このところ強く感じ始めた。
令和2年1月26日
講習に向う電車内でフト思ったが、全く関係の無いことの発想や行動というのは、自らを守るための無意識的自衛手段とも言えるかもしれない。表裏のバランス感覚として己を保つものであるが、その内容によっては逆効果もありうる。
令和2年1月23日
昨夜の全身を廻(めぐ)らせる身体の使い方で、身体が温まり体の強さを確認できた。
小太刀では「引込み潰し」という技が生まれた。
令和2年1月22日
昨夜、松聲館での稽古で身体の新しい使い方を学んだ。
それを本日の稽古で試みたところさまざまにこれまでにない強さを身体が実感出来た。
帰りの電車内で、足の使い方を自分なりに検討したところ、身体に活力が湧き、帰りの道中にもそれをおこないながら歩いたところ寒いはずなのに身体が熱くて驚いた。この足も含めた全身の関連性は明日の稽古で試してみたい。
令和2年1月19日
「武術稽古は自省を促すものである」
深夜に記事を書いていてそうした考えが頭に浮ぶ
令和2年1月16日
「曖昧な加減を探る」
新宿スポーツセンターでの一人稽古時に感じたこと。
実感だけに判断を求めてしまってはならない。実感のない曖昧な部分を探り、その加減の中で発見できるものがあると思われる。今はそこに新たな眼を向け、現時点を超えて行きたい。
【抜刀術】
「天神抜き」では、鞘を出さずに構えられるようになった。
転換と落下が身体に入る。
「津波返し」では、以前は合致しなかったが前足の指を抜いて使えるようになった。
抜刀では、右手首の角度も初動の伝達には重要である。心理的居着きより優先出来るものとなった。
令和2年1月15日
「意味のある一冊」
昨日4.5㎞をゆっくり走りながら、本には読むべくして読むものがあるのだと、それが今までのこと、これからのことを整理させてくれるものであると気がついた。人との出会いがあるように、本との出会いにも不思議なタイミングがある。
令和2年1月12日
7㎞走った後、部屋で袈裟斬りを始めた際、背中の使い方に新たな実感を覚える。
これは、先日木曜日におこなった袈裟斬りの余韻があったのか、まだ私の中に諦めていない部分があったのかもしれない。しなりを諦め開閉となったのであるが、肩の痛みが幸いしこれに気付かせてくれたものであり、まだこれが採用となるのかどうかは、相手を付けて稽古をおこなってみなければわからない。こうしたことは日が経ってみて不採用となることもしばしば起こりうるので。
令和2年1月9日
「利害関係とは、利害が一致するだけではなく、利もあれば害もある関係性である」
状況とともに利害は逆転し、足枷となる場合もある。安易な利害関係は持たぬこと。
令和2年1月6日
「淡々と続けられる中で機能していくものとその見極め力」
淡々と続けられることの力は今までにも感じていたが、あらためて動きを変えてみたときに、これまで淡々とおこなっていたものの機能性に気がつく。だが、何を淡々とおこなうかを誤るとそれは寧ろ弊害となる。今夜の稽古で試したいと7㎞走りながらそういうことを考えた。
令和2年1月4日
「意識と身体の近づき」
身体が育たなければ意識も育たず、意識が育たなければ身体も育たない。意識と身体が近づくこと、それが無意識を育てるということなのかもしれない。1/3稽古帰りの深夜に思う。
令和2年1月3日
深夜に記事を書いていて、「対にあるものに時間をかけられるか」という事に気づかされる。その対とはさまざまな層で覆われており、多くの層の中から最も必要なものをみつけられる身体観がその人の無意識レベルの高さを示しているのであろう。
令和2年1月1日
日々身体と心に気が付いたことを記録する場としたい。
新たな年が幕を開け世の中も同時に切り替わる。このお正月の間に冷静な何かを確立させたい。